■はじめに―新しい沖縄が始まった
天皇皇后両陛下は第四十四回全国植樹祭へのご臨席のため、去る四月二十三日から二十七日までの四日問のご日程で、天皇として初めて沖縄をご訪問になった(皇太子としては五回ご訪問になっておられる)。それは
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」
と病床にあって最後の最後まで沖縄ご訪問をご念願になった御父、昭和天皇のご遺志を受け継がれての旅でもあった。
その両陛下をお迎えする沖縄県民の表情を、私はひたすら追った。沖縄の人はどちらかというとロ下手で、シャイで、自分の思ったことをぶしつけに語るようなことはしない。だから言葉巧みな左翼陣営の前に沈黙しがちで、それが本土の人の誤解を招いているところがある。今回もマスコミは、大田知事の「ご訪問では沖縄の戦後は終わらない」という発言や、陛下のお言葉を拝した遺族の「感激しましたが、これで戦後は終わりません」という言葉に焦点を当てて、県民感情はやはり複雑だ、陛下のいたわりのお言葉でも癒せないほど戦争で受けた沖縄県民の傷は深いのだ、と強調した。あたかも両陛下のご訪問はそれほど沖縄にとっては意味がなかったと主張するかのように。
しかし、それはとんでもない誤解だ。私は一週間余りの取材で、沖縄に深い御心をお寄せになってこられた両陛下の「祈り」に直接触れ、深い感銘の中で新しい沖縄を築き上げて行く勇気を得た県民たちの姿を目の当たりにしてきた。その一端をここに報告させていただくことにするが、その前にどうしてもマスコミが言う「沖縄の複雑な県民感情」について触れておきたい。
■「沖縄戦かく戦へり」との叫び
沖縄のことを考える時、どうしても沖縄戦のことを避けては通れない。沖縄では先の大戦で、激しい地上戦と極度の食糧不足のため五十万県民の約二十㌫あまりの非戦闘員が死亡。「鉄の嵐」と呼ばれる米軍の激しい艦砲射撃によって島は焼き尽くされた。その凄まじさは想像を絶する。
いかに沖縄県民が苛酷な体験を強いられてきたか。沖縄の慰霊の象徴「ひめゆりの塔」を建てた仲宗根政善氏は、「昭和十九年十月十日の大空襲で、一日にして灰に帰した那覇市は、さらに砲弾をぶちこまれて、瓦篠の死の街と化していた。ふと東の方を向くと、見おぼえもない白い低い雪におおわれたような丘があった。私は自分の眼を疑った。緑におおわれて静かだった旧都首里の変貌した姿であった。天文学的数量の砲弾をぶちこまれ、首里城は吹っ飛ばされ、樹木はなぎ倒され、岩はうち砕かれて白い粉をふいて、まるで雪におおわれているように、真白く見えているのであった。(中略)世界の人々が、沖縄戦のこの惨状を見とどけるまでは、木よ伸びるな、草よ茂るなと、私は、さけんだ」(『石に刻む』)と書き、次のような歌を詠んだ。
沖縄戦かく戦へりと世の人の知るまで真白なる丘に木よ生えるな草よ繁るな
「六・八・五・十二・十三」という極端な字余りだが、この歌からは、沖縄戦でいかに県民は戦い、そしていかなる悲劇を体験したかを世界中の人々が知るまでは、うち砕かれたままに岩肌がむきだし、一本の樹木さえ生えないでほしいという「叫び」がいまも生々しく聞こえてくる。そしてこの「叫び」こそ、沖縄戦にこだわる県民ひとりひとりの心の奥底に流れている思いなのである。
この同胞の「叫び」を、本土の側か受け止めたとは決して言い難い。終戦後も、本土が独立を認められた同じ日に、沖縄はいつ自由になるとの保証がないまま異民族の軍事支配下に組み込まれてしまった。沖縄は日本への復帰を渇望し、「日の丸」を掲げて激しい本土復帰運動を展開。ところが本土復帰はなったものの、米軍基地はそのまま残された。その上、沖縄にとって不幸だったことに、復帰後、本土から様々な革新勢力が沖縄の労組・マスコミに精力的なオルグを行い、「沖縄は捨て石だったんだ」という左翼の論法が沖縄を席巻してしまった。
当時の沖縄県神社庁庁長は、次のように語る。
「本土復帰後、左翼の論法が入ってくる前までは、戦争体験者や戦闘に巻き込まれた犠牲者の遺族には『私達は祖国のために命懸けで戦ったんだ』という誇りがあったんです。ところが左翼論法が入ってきて、沖縄は軍国主義によって騙されたんだ、沖縄は捨て石だったんだ、と言われ続けられて、自分の気持ちを素直に出すに出せない雰囲気、出したら沖縄県民ではないように見られる雰囲気が出来上がってしまい、みんなものが言えなくなってきた。そして幾分かの人は『そうか、騙されていたのか』と思い始めて、思い入れが強いだけにどんどん深みにはまって、恨みつらみばかりを言うようになってしまったんです。」
もし仮に復帰後、本土の側か祖国のために戦った沖縄県民の誇りを尊び、その痛みをもっと理解しようと努めたならば、県民のわだかまりもここまで深くなることはなかったかも知れない。ともあれ保守・革新の区別なく県民の心の中に「あれはどの犠牲を払ったにもかかわらず、大東亜戦争の時も独立回復の時も沖縄は結局本土から見捨てられたんだ」という屈折した思いが伏流し、それが本土に対するこだわりとなって現れていることを知るべきであろう。
■戦後の沖縄と皇室-陛下の沖縄に寄せる思い
こうした「沖縄戦かく戦へりと世の人の知るまで」という悲痛な叫びと「我々は結局見捨てられたんだ」という本土への屈折した思いを、ひとり敢然と受け止めようされたのが、今上陛下であった。
復帰前の昭和三十八年、陛下は第一次沖縄豆記者訪問団の一行とお会いになった。このことが沖縄に深い関心をお寄せになるきっかけとなったとおっしやられているが、その後、陛下は沖縄に心を傾け始められる。昭和四十一年、全国小中学生百万人の呼びかけで集まった資金を元に沖縄少年会館が建設された折には、辞書などの図書とお子様方が使われた幻燈機などを寄贈されたりして世間が知らないところで積極的に交流を図られた。そして昭和五十年、「たとえ石を投げられても」と左翼過激派が践艦する中を初めて沖縄をご訪問、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げ付けられた夜、陛下は次のようなメッセージを県民に向け発表された。
「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力をあわせて努力していきたいと思います。払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せつづけていくことをおいて考えられません」
このメッセージは県民の心に強く響いた。が、陛下の御心が広く県民の心に染みとおっていくにはまだまだ時間が必要であった。その後も昭和五十一年、昭和五十八年、昭和六十二年に二度(一度は昭和天皇のご名代として)と、実に四回にわたって沖縄をご訪問。その間、沖縄の万葉集にあたる「おもろ」を学び、現在は殆ど使われない遠い昔の沖縄の言葉を駆使して「ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて(生い茂っている本草の問を巡ったことよ、戦いの跡に繰り返し繰り返し思いを寄せながら)」といった琉歌をお詠みになるなど(この琉歌は遺族を中心に広く知られている)、沖縄のこころに深く分けいろうと絶え間無い努力を重ねられた。
その一方で、記者会見で沖縄のことにお触れになることが増えていく。
「日本ではどうしても記憶しなければならないことが四つあると思います。(終戦記念日と)広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして六月二十三日の沖縄の戦いの終結の日」(昭和五十六年)という、あまりにも有名なお言葉によって、沖縄戦で散華された英霊の方々への慰霊の道を自らお示しになり、時には沖縄の県民のこころを代弁されるがごとく「広島、長崎は原爆のため印象的でよく知られていますが、沖縄は逃げ場のない島です。たくさんの人たちが亡くなったのに、本土の人たちの視野から落ちがちです。……本土から大勢の人々が訪れますが、沖縄の人々の痛みを分かち合うようになってほしい。それが本土復帰を願った沖縄の人々に対する本土の人々の道であると思います」(昭和六十二年八月)
とお述べになることもあったのである。
■ご訪問「賛成」74%、「反対」は僅かに5%
天皇皇后両陛下が皇太子同妃両殿下として五回にわたって沖縄をご訪問されたことは、沖縄に少しずつ変化をもたらしていった。本土からの左翼勢力のオルグで皇室に対するわだかまりを抱くようになった一部の沖縄県民や左翼マスコミでさえ、その真摯なご姿勢に心動かされるようになっていったのである。
現沖縄県知事である大田昌秀氏は、僅か六年前の海邦国体の時、昭和天皇のご臨席が決まったことについて、「(国体の)成功が、逆に『第二の皇民化』を促進する一大転機を画するのではなければ幸いである」と現地紙に書き反対したが、今回は「両陛下のご臨席それ自体は慣行であってご訪問はそれほど意味を持たない」という態度をとるに止まった。一部過激派は「天皇が来ないと木は育たないのか。多額の税金を使う植樹祭は必要ない」と盛んにデモ・集会を繰り返し、現地紙も「過剰警備反対」「戦後は終わらない」といった意見ばかりを取り上げ反対ムードを煽ろうとしたが、県民からはそっぼを向かれてしまった。その原因を、植樹祭開催を強く批判することでその矛先が革新県政にまで及ぶことを大田県政の支持母体である労組・市民団体が恐れ、動きが鈍ったからだと分析する人もいたが、最大の原因は、大多数の県民が両陛下のご訪問を望んだということに尽きる。
全国紙はきちんと報じなかったが、地元紙「琉球新報」が三月下旬に実施した電話調査では、「ご来県賛成」は実に74%、「反対」は僅かに5・3%に止まった。また「沖縄タイムス」が四月十四、十五日に実施した世論調査でも、「天皇陛下の初めての沖縄ご訪問を歓迎する」と答えた人は60・7%に上っており、「歓迎しない」と答えた人は僅かに3・3%に過ぎなかった。
一方、歓迎派は、県下の青年グループによる「天皇陛下奉迎推進沖縄県協議会」がご訪問の前夜の二十二日に、日本を守る沖縄県民会議・県神社庁などによる「天皇陛下奉迎提灯パレード実行委員会」が当日二十三日にそれぞれ提灯行列を計画し、更には県商工会議所を中心に県下百五ト以上の団体が「天皇陛下を奉迎する県民の会(田場典正会長)」を結成、奉迎準備を進めていたのである。
■南部戦跡での「祈り」に始まったご訪問
こうした中で、いよいよ両陛下が天皇として初めて沖縄をご訪問になる四月二十三日が訪れた。このロ午前十時過ぎ、羽田国際空港から両陛下をお乗せした特別機が一路沖縄に向かって飛び立った。
陛下はこの特別機の中でしきりにペンを動かされていた。
「われわれがのんびり機外の景色を眺めている間、陛下はご自分の原稿を何度も書き直されていたんです……」と側近の一人は語る。「ご自分の原稿」とは言うまでもなく、ご訪問初日の午後、沖縄戦最後の激戦地摩文仁の丘の平和祈念堂で遺族に語りかけた六分間の〝お言葉〟のことだ。
午後十二時四十四分、特別機は那覇空港にご到着。空港の貴賓室で大田知事らの歓迎の挨拶を受けられたあとご乗車のためターミナル玄関へ。するとターミナル前の駐車場で「両陛下、ようこそウチナー(沖縄) へ」といった横断幕を掲げた人々が「ワァー」と歓声をあげながら一斉に日の丸の小旗を振り始めた。その数は約一千名。両陛下が優しく手を振ってお応え下さると、奉迎の列の中から「君が代」の合唱が起こった。それをじっと聞き入られた両陛下は斉唱が終わると御車に乗り込まれた。そして今度は防弾ガラスの窓を開け、手を振って沿道の歓声にお応えになった。御車はそのまま直接南部戦跡へ。午後二時過ぎ、糸満市摩文仁の沖縄戦没者墓苑にご到着。
「念願の沖縄訪問が実現することになりましたならば、戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらいたいと思います」(昭和六十二年四月の記者会見)との昭和天皇の御心を受け継がれ、両陛下の沖縄ご訪問は南部戦跡での「祈り」から始まった。これは「陛下が積極的に希望された」(宮内庁幹部)ことであった。両陛下は摩文仁の丘をのぼられ、沖絹戦で散華された十八万余柱が眠る納骨堂前の参拝所で深々と一礼をされた。
■陛下の「祈り」を受け止めた遺族たち
続いて沖縄平和祈念堂に移られ、陛下は遺族の代表約百五十人を前に「お言葉」を述べられた。特別機の中で何度も何度も推敲されたお言葉を、「即位後早い機会に沖縄県を訪れたいという念願がかない……」と、時折言葉を選びながらゆっくりとお述べになった(別掲)。当初は二分間程度と言われていたのが実に六分間も、それも全く原稿を見られないで切々と述べられた「お言葉」は、県民と苦しみを分かち合おうとするお気持ちの表れとして、遺族たちに感激と深い感謝の思いを呼び起こした。
陛下の案内役を務めた県遺族連合会の会長は、「こんなにはっきりと、しかもご自分のお言葉でおっしゃるとは思っていませんでした。この感激は一生忘れません。国の安泰を守るために犠牲になった者に対する陛下の哀悼の意は、み霊の供養になりました」と語り、感激のあまり陛下との別れ際に「陛下のお気持ちは、ここに来られなかった多くの方に必ず伝えます」と申し上げた。
ある県民の方は「五十年近く胸につかえていたものが取れました。陛下がこんなにも沖縄のことを考えて下さっているとは……」と感激を語り、慶良間で住民が集団自決するなか奇跡的に生き残った県民の方(51)も「沖縄の戦後は『慶良問なくして語れない』と言われますが、個人的には過去を悔やんでも仕方がない、という思いです。陛下はそれをお望みだったのでしょうが、これで一つの区切りがついたのでは。意味あるご訪問だったと思います。」と述べた。
沖縄からの豆記者と初めでお会いになってから今日まで、実に三十年もの間、ひたすら沖縄に御心を寄せ続けてこられた陛下の真実の「祈り」は、陛下の行幸を心待ちにしていた遺族たちばかりでなく、例えば「これで戦後は終わりません」と述べた「県遺族連合会」の妻代表の方の心をも揺り動かした。
妻代表の方は「長い間ご苦労というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。夫の霊前に報告したい。陛下の言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきた」と語る。同じく「心の痛みは年を経るほどに大きくさえなります。遺族が生きている間は戦後は終わりません」と語る。またある県民の女性も、「大変おごそかにお言葉を交わしていただきました。陛下は亡くなった方たちの家族の悲しみを強くお感じになってお慰めの言葉をくださった」と、陛下のお言葉の一あったと察奥にある真実に触れた感動を語ったのである。こうした遺族の複雑な胸の内を、県遺族連合会役員の女性の方は、「戦争で肉親を失った者にとっては、陛下がいらしたからといってその日を境にキリがつくことはありません。しかし戦争を過去のものにという陛下のお言葉を目標に、みんなが平和に向かって取り組む区切りの日にしたい」と代弁する。
マスコミは「お言葉」によって戦争で受けた傷が癒されるかどうかだけを問題にしたが、悲しみを内に秘めながらも遺族たちがいかなる方向にその心を振り向け始めたのかーに思いを馳せる時、遺族たちが陛下の「祈り」を素直に受け止め、陛下の「平和への願い」を共有しようとし始めた事実に気づかされるのである。
■ひめゆりの塔前で戦後初の「君が代」
平和祈念堂を後にされた両陛下はご休憩をとられることなく、この日最後の訪問地ひめゆりの塔に向かわれた。
ひめゆりの塔付近の沿道には、三時間以上前から県民が並び始めていた。沖縄はもう初夏。この日今年最高の二十八度を記録した暑さのなかで、むずかる子供をあやしながらじっと待つ母親の姿があった。
「どちらからですか」
「この近くからです」
「戦争とかへのこだわりは、やはりありますか?」
「過去のことは本土の人が騒いでいるだけじゃないですか。皇太子殿下としては来られましたが、天皇陛下として初めてなんですから直にお会いしたくて……」
すると横から六十過ぎのおじさんが会話に入ってきた。
「戦争体験者は戦争のことをよく知っているだけに歓迎の人が多い。むしろ戦争のことをよく知らない若い人の方がマスコミから影響を受けて反対しているんじゃないか」
午後三時半過ぎ。白バイの先導で御車がゆっくりと近づいてくる。「パサパサパサ」と日の丸の旗が振られる音と「ワァー」という歓声が響く中を、両陛下が御車から降り立たれる。入口でお迎えするひめゆり同窓会の人々に陛下がお声をかけられるや、沿道の人々が一斉に「天皇陛下万歳!」と声を上げ始めた。両陛下は沿道に振り向かれ、ゆっくりと手を振ってお応えになる。「また再会できましたね」とばかりに県民たちの姿を見つめられる優しい眼差しに「ウォー」と声があがり、「君が代」の斉唱が起こった。
すると両陛下は姿勢を正され、じっと聞き入られたのだ。ひめゆりの塔の前でたぶん戦後初めて響く「君が代」の調べはバラバラな調子だったが、みな懸命に歌っていた。そして斉唱が終わると、皇后陛下は沿道に向かって深く一礼をなされた。塔に向かわれる両陛下の後姿を見ながら、私の横で「本当に有り難いことだ。こんなにお応え戴いたのはただ事ではない。大変なことだ」とある青年(35)は涙ぐんでいた。 ひめゆりの塔の前に進まれた両陛下は、テッポウユリ、菊、カーネーションなどの白い花束を捧げ、深々と一礼をされた。そして塔に隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れ、遺品や壕の模型などを熱心にご覧になった。
陛下は「慰霊の一日」となったこのロの夜、
「戦時に倒れた人々をしのび、家族を失った多くの人々の悲しみに思いをいたしました。心痛むことでありますが、ひめゆり平和祈念資料館が完成したことをうれしく思います。この展示により平和への思いが人々の心に永く語り続けられていくことを願っています」
とご感想を発表された。
■ひたすらに両陛下を慕う県民たち
一滴の水滴が大きな波紋を静かに描いていくように、両陛下の「祈り」は深い感動をともなって県民に伝わっていったようだ。ご訪問初日の夜、那覇市のメインストリート「国際通り」で行われた提灯行列には実に五千人もの県民が集い、提灯を掲げつつ「天皇陛下万歳!」を連呼したのである。
その熱気は一夜明けても那覇市内にまだ残っていた。ご訪問二日目の二十四日朝、県庁前に奉迎に来ていたおばあさん(73)は、「昨晩、初めて提灯行列に参加して、みんなで天皇陛下万歳を叫んで、あんなに嬉しい日はなかったよ。あのあとお風呂に入って、本当にぐっすり眠れて、昨日からこう気持ちが伸びて大きくなっているんです」と喜々として語ってくれた。
国際通りの横に位置する県庁前の沿道には「奉迎 天皇皇后両陛下」「両陛下のご来県に心より感謝します」といった横断幕が掲げられ、日の丸の小旗が配られると、集まっていた人々が我先にと小旗を取り合う。昨日までの沖縄とは何かが違っていた。㈱総合教育研究所の方は、「陛下の行幸によって、国旗のことなどで今までビクビクしていたのが、車のドアに日の丸の小旗を差している人もいて、確かに沖縄は変わりつつある。漸く自由にモノが言えるようになったなーという実感があります」と語っていたが、確かに県民たちはただひたすら両陛下のお姿をお慕いし、その思いを表すことに最早ためらいを示さなかった。
この県庁前で、忘れようにも忘れられない光景に出会った。事前に配られる日の丸の小旗を「要りません」と受け取ろうともしないおじいさんがいた。訝しんでいたところ、御車がお通りになるやコンクリートの歩道の上に正座して深くこうべを垂れ合掌したのである。「陛下、本当にありがとうごさいます」、その切なる思いを全身で表していた。その姿に周りの人々は思わず涙ぐんでいた。
この日午後は北部の名護市に向かわれ、特別養護老人ホーム県立名護厚生園へ。沿道にはやはり両陛下の御姿を一目だけでもと、カンカンと陽が照る中を二時間も前からじっと待ち続ける人々の姿があった。厚生園前で出会った七十過ぎのおばあさんは昨日の陛下の遺族へのお言葉のことをよく知っていた。「新聞によれば、これで戦後は終わらないという遺族もいるそうですね」と話かけたら、「いつまでも戦争のことを言っていては駄目だと思うんです。平和を願っておられる天皇陛下のもとで、私たちは頑張りたいと思っているんですよ」と語気を強めた。
この厚生園前では、「奉迎 全国植樹祭行幸啓」という横断幕を掲げていた青年四人のグループとも出会った。揃いの黄色のポロシャツを来たこの青年たちに「この横断幕は自分たちで作られたんですか?」と話しかけてみた。
「そうです。みんなで作りました」
「あの……… どちらの方ですか」
「余り話してもちっては困るんですが、実は陸上自衛隊のものです。もし何かがあったらと思いまして、休暇をとって来たんです。もちろんみんなで話して自発的に来たんで、自衛隊とは何の関係もありませんよ」
そして午後四時過ぎ。厚生園前を御車がお通りになるや、沿道の人々は警官の制止も聞かずに道路に身を乗り出して日の丸の小旗を振り、奉迎が終わると「生きていてよかった……」「本当に嬉しかったネー」「皇后さまがきれいだった」などと口々に語らいながら、満足気な笑みを湛えた。そして一様にただ一つのことを、沿道を警備する警官に尋ねていた。「今度はいつお通りになるのですか」と。取材中、私は何回この言葉を聞いたことだろう。
■戦後との訣別の儀式でもあった「植樹祭」
感動が感動を呼ぶ。実に五万人を越える県民が沿道に立った四月二十五日、第四十四回全国植樹祭が開催された。
ここ数年、地球環境問題がクローズアップされるにつれ、植樹祭は急速に失われつつある森林資源を守り、緑を回復しようという世界的な課題を強く意識したものになってきた。「育てよう 地球の緑 豊かな緑」という大会テーマに示されるように今回の沖縄の植樹祭もその例外ではない。だが今回の植樹祭で忘れてはならないことは、それが戦没者の慰霊と深く結び付いた催しだったということだ。
実は当初、西銘県政の下で植樹祭会場は名護市の北明治山に決まっていた。ところが平成二年県知事に当選した大田知事は、「北明治山では、一万本余りの樹木を切ることになる。植樹祭本来の趣旨は戦災で廃墟と化した国土に緑を取り戻すことだ。犠牲になった人たちへの慰霊にもつながる」と述べ、会場地を糸満市の南部戦跡の一角に位置する米須・山城地区に変更。この決定は「米軍の艦砲射撃でハゲ山となって、それ以来木も生えなくなったところだから、前の会場よりも亡くなった方々もお喜びになるとみなで言っているんですよ」(沖縄戦で多数の友を亡くした方・70歳)と、広く県民から支持された。
会場地となった米須地区は摩文仁の丘のすぐ横で、住民約一千五百人のうち、生き残ったのは僅かに百十人という激戦地。激しい艦砲射撃で焼き尽くされ、焦土と化したこの地には、戦後四十七年を経ても木が生えないのだという。仲宗根氏の「沖縄戦かく戦へりと世の人の知るまで真白なる庄に木よ生えるな草よ繁るな」という歌のごとく、木一本生えないことで「沖縄戦かく戦へり」と戦争の傷痕をいまに伝えるところなのである。この地を敢えて選んだところに、県民の鎮魂の思いの強さが感じられる。
当日は、式典が午前十時十分から始まり、開会のことば、国旗掲揚と国歌斉唱のあと、鐘の音を合図に参加者約一万人が一分間の戦没者追悼の黙祷。次いで大田知事の挨拶、来賓祝辞と式次第が続き、やがて会場アナウンスが両陛下のお出ましを告げる。そして午前十時五十五分、一斉に振られる日の丸の小旗の歓迎の中を、天皇皇后両陛下がご入場。復帰後の県の公式行事でこれはどの日の丸の旗が振られたのは初めてのことという。参加者に何度も何度も手を振られながら、両陛下はお野立所の席につかれた。そして、いよいよお言葉。一瞬の静寂のあと、陛下は「戦争により焦土と化したこの地域において行われることを非常に意義深いことと思います……」と、お言葉をゆっくりとお述べになった。その後、天皇陛下は県木「リュウキュウマツ」の苗木を、皇后陛下は「フクギ」の苗木をそれぞれお手植えになった。ゆっくりと苗木に土をかける両陛下、その御姿に参加者一万大の注目が集まる。沖縄の痛みをわが痛みとしようとする陛下の「限りない祈り」と「絶え間無い努力」のうちに、約二十年という年月をかけて少しずつ積み重ねられ育まれてきた「両陛下と県民の和の姿」がそこにあった。
参加者のひとり、那覇商工会議所の会頭は「天皇陛下のお言葉を聞いていて、陛下の沖縄への思いが深く、沖縄に対して大変気を使われていると感じた。二百五十年前の蔡温の造林に触れられたことに驚いた。激戦の地、米須で植樹祭が行われたことは意義深い。列席された皆さん、みんなが感動したと思う。沖縄戦のことを忘れてはいけない。が、余りこだわりすぎてもいけない。沖縄の将来を考えて、木を育て、ほかの面も育てていくことが我々の務めではないか。天皇陛下は日本の象徴だという感を深くした」と語り、植樹祭の様子をテレビで見ていた県民の方(62)は「私は戦争で兄を亡くした。戦火で焦土と化した沖縄の地に緑をよみがえらせたいという思いをめぐらせた天皇陛下のお言葉に感激した。植樹祭を機に過去のもろもろのことは忘れ、未来を大切にすべきだ」と述べていた。
鎮魂と緑の回復を願った沖縄の植樹祭は、
「戦争のために亡くなった多くの人の死を無にすることなく、常に自国と世界の歴史を振り返り、平和を念願し続けたい」(四月二十三日のお言葉)
との陛下の「祈り」にこころを重ね合わせていこうとする沖縄県民の「決意」を示す儀式でもあったのである。
■尚家の末裔の祈り
四月二十六日、ご帰京となる日の午前、両陛下は戦火に倒壊し、この度見事に再建された首里城をご視察になった。その間、城の入口「守礼門」の横にある園比屋武御嶽という所で、杯などの祭具を置き、海の幸をお供えして、祈りを捧げている女性に出会った。この女性(70)は、琉球王朝第二尚氏の末裔にあたり、尚家の祭祀祭具とともに受け継いだ方だ。
「ここは、王が首里城から外へ出て航海をする時、その無事を祈る神聖な場所なんです。お祭りしている神様は源為朝の長男で、日本のいろは文字を琉球に伝えた俊天王です。いま、お供えをあげ、天皇皇后両陛下が初めて琉球にお越しになったことを奉告したところです。今日は両陛下が首里城にお入りになった特別の日ですし、ご帰京のご無事をお祈りいたしました。大丈夫、神様は私の祈りを確かに受け止ったと言って下さいましたから、ご無事でお帰りになられます」
琉球の神々に両陛下のご安泰を祈るーここにも沖縄県民のまごころの一つの形があった。
昼過ぎ一旦ご宿泊先のハーバービューホテルにお戻りになった両陛下は、那覇空港へ。空港ターミナルビル前の駐車場には一千名を越える県民がお見送りに来ており、その中には「天皇皇后両陛下 いつまでもお元気で さようなら」という横幕を掲げた沖縄県豆記者交歓会一行の姿もあった。午後二時、空港にお着きになると、日の丸の小旗が一斉に振られた。ゆっくりと特別機のタラップを上られる両陛下は、県民の歓声に何度も何度も手を振ってお応えになり、機内に入られた。午後二時五分、舞い上がる特別機に向かって県民は「お気をつけて」「天皇皇后両陛下万歳!」と口々に叫びながら、日の丸の旗をはためかせていた。
この日、両陛下はご帰京に当たり沖縄滞在四日間のご感想を次のように発表された。
「植樹祭を機会に六年ぶりに沖縄県を訪れました。四日間の滞在を終えて帰京するに当たり、沖縄の今日を築いた県民の努力に深く敬意を表し今後の発展を念願いたします。 きょう、最後の日にあたり、美しく再建された首里城を訪問しましたが、この歴史的建造物が県民の協力と関係者の努力とにより綿密に復元され、琉球国時代の歴史と文化をよみがえらせたことを喜ばしく思いました。 訪問の先、また沿道において迎えてくれた大勢の人々に感謝し、県民の幸せを祈ります。」
■終わりにー沖縄を築く原動力
沖縄の人々は概して無口だ。だがそれは、思いがないということではない。口にこそ出さないものの、今回の両陛下のご訪問に心から感謝し、陛下の平和への「祈り」に自らのこころを合わせていこうとしていたことは、各地での真心のこもった奉迎ぶりが雄弁に物語っていた。
各地で小旗を配って回った「天皇陛下を奉迎する県民の会」事務局の方(33)は奉迎の四日間を終え、いかにも感に堪えないようにこう語る。
「一時間でも二時間でも沿道でじっと待っていて、実際に拝めるのはたった一秒か二秒。それでもみんな不満を言うことなく満足げに帰っていく。もし総理大臣ならば、こんなことをしたら大変な不満が出てくるに決まっている。たった一秒だけで県民をこんなに満足させる存在はやはり陛下だけですよ。」
たった一秒、ただそれだけの奉迎のために炎天下の中ひたすら二時間待ち続ける。何という健気な、純粋な思いであろうか。両陛下とたとえ一瞬でもつながりたいとの思いにおいて、沖縄県民の思いは本土と比べても勝るとも劣らないものがあった。その切実な思いがきっとこれからの沖縄を築いていく大きな原動力となるに違いない。それも天皇陛下の「沖縄への祈り」に限りない感謝と共感を捧げる県民たちによって、これまでと違う新しい沖縄が築かれていくであろう。ちょうど今回の植樹祭で両陛下がお手植えになった苗木が林となり、やがて鬱蒼とした森となっていくように……。