祖国復帰への道と皇室との交流 -沖縄の「戦後」にかかわり続けて 新樹会代表幹事 末次一郎
沖縄の問題についてお話する前に、まず、私が青年運動を始めた動機について簡単に述べます。終戦の時、私は、予備役の陸軍少尉でした。しかも陸軍中野学校で精神教育を受けていましたから、同じ少尉の中でも、敗戦の衝撃は人一倍大きかったのです。中には“解放万歳”を唱えた者もいましたが、私は当初自決をするつもりでいました。しかし、結果的に生きようと決心した時、考えたのは、では何をなすべきかということでした。そして一番最初に浮かんで来たのが、生き残った者の努めとして戦争の後始末をしようということであり、それと同時にこれからの日本に何か役立ちたいということでした。幸いにも、そういう私の志を親達が理解してくれたので、運動に専念できる態勢を整えられたわけです。
■戦後処理に尽力するー引揚者援護と講和条約修正運動-
こうして昭和二十三年ごろからとり組み始めたのが引揚者への援護活動でした。その当時は、海外から引揚者がどんどん帰って来ていましたので、そうした引揚者のお世話をしたのです。それと共に当然引揚げて来るべきなのに、とり残されている方々の引揚促進運動。それから大変不遇の立場にあるにもかかわらず、占領軍の命令で国が何の面倒もみることの出来ないご遺族への援護活動を行いました。
次にとり組んだのが、昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約締結の時の講和条約内容に対する修正運動でした。当時、わが国は、「全面講和」か「単独講和」かということに世論が分裂していました。マスコミが連日のようにこの問題をとり上げ、また街頭にはデモ隊がシュプレヒコールをあげるなど国民的対立にまで広がっていたのです。しかしながら、私達は、このような対立・論争は結局講和条約を結ぶ上での形式上の論争であって、より重要なのはいかなる内容の条約を求めるかの論争であると考えていました。というのも第一に全面か単独かといえば、できるなら全面講和の方が良いが、連合国内においてアメリカとソ連との意見が対立しているという情況を考えると、意見が合うのを待って全部の国々と講和条約を締結するというのは非現実的な議論だ。従って大多数の国々と講和を結ぶのは正しい。しかしながらそれはあくまで議論の一部にしか過ぎない。講和条約は戦争の結末だから我々の意に反する部分が当然ある。どういう内容の講和をするかということがもっと重要だと考えたからです。ところが当時は、私達は全くの少数派でした。敗戦ということもあり、内容について議論するような風潮はありませんでした。
アメリカの対日講和条約案の内容で、私達が問題としたポイントは、具体的には以下の五点でした。第一点は、第二条C項の北方領土問題で、北方領土に関する権利、権限のすべてを放棄させられるのは容認できない。第二点は第三条の沖縄問題です。これは沖縄の運命については将来は国連の信託統治にし、それまではアメリカが司法、立法、行政全てを握るという内容で、これでは事実上アメリカ領となったも同然だから日本の立場としては容認できない。第三に、ポツダム宣言で外地にいる日本人は引揚げさせるということを連合国は日本に約束していたにもかかわらず、ソ連や中国には抑留者がなお残っている。ポツダム宣言の約束の早期実現は、連合国の連帯責任です。たとえアメリカだけは抑留者を返したといっても、アメリカの責任はまだ終わっていない。従って講和条約を結ぶに際して、中・ソ両国に残された抑留者をどうするかということについての責任を明確にする条項を入れる必要がある。第四が第十一条の問題です。これは戦犯条項というべきもので、簡単に言うと連合国が戦犯裁判で判決を下し、日本政府はその判決を認めましたが、我々は裁判そのものが間違っていると考えており、従って“はい”というわけにはいかない。最後に第十四条の賠償条項です。賠償に関する原則を書いてあります。原則ですから金額が書いてあるわけではありませんが、その頃、関係国から出されていた賠償要求の額をそのまま合計すると、第一次世界大戦後のドイツに課せられた天文学的数字の賠償要求(これがやがてはヒトラーを生み出す要因となったと言われている)と同様またはそれ以上の賠償を支払えということになりかねないものでした。
以上の五点はいかに敗戦国といえども容認できない内容であると思いました。しかもアメリカの対日講和特使のダレスは、講和交渉のプロセスにおいて、この講和条約案は“寛容と正義”の条約であるとカッコいいことを発言していたので、それなら私達にも言う権利はあると考えて、要求実現のために断食をしたりもしました。沖縄問題も唐突に運動をしたのではなくて、いま申し上げた様なことがあってそこから始まったわけです。
■沖縄とのかかわりー「日の丸」を送る運動
その沖縄問題への直接のかかわりは、二十八年からとり組んだ沖縄に国旗を送る運動からでした。国旗に関しては、当時は公然とは送れないものだから家庭用の国旗を個人で送っておられた、沖縄出身で東京在住の船越先生という方から助力を求められたことがきっかけでした。その相談を受けて検討した結果、個人用の国旗を細々と送るのではなく、学校に送ることを考えました。調べてみますと、その頃沖縄には小・中・高校合わせて約五百校ぐらいありました。沖縄は海風が強いから特別染めをしないと色がすぐ褪せるし、毎日掲げないにしてもすぐ生地が切れてしまう可能性があるというので、特別の布地や染めの研究をしました。そうして畳二枚ぐらいの大きさで、当時の金額で一二二千円もする国旗を注文することになりました。その代金のカンパを全国にお願いしたところ、全国の婦人会や青年団から協力を得ることができたのです。
こうして国旗は用意できたのですが、先程も触れたように、当時は沖縄へは国旗を公然とは持ち込めなかったため、その輸送手段には苦慮しました。最初は沖縄から来た青年団の代表に二、三本ずつ持って帰ってもらっていましたが、やがて日本赤十字社に頼んで、日本赤十字社のものということにして沖縄に持ち込めるようになりました。国旗の受け入れと各学校への配布については、琉球政府では占領軍の監督が厳しいものですから、沖縄教職員会をパイプにすることになりました。その結果、教職員会が配分してくれまして、二十九年の秋ぐらいまでに配布が全部かたづきました。その後も、新設校ができる度毎に依頼が続々と来るので、その度に国旗を送りました。
この国旗配布運動については、地元沖縄の反響は多大なものがありました。学校の子供達や校長さん達から数え切れない程の感謝の手紙をいただきました。詩を作って送って来てくれる子供もおりました。余程嬉しかったのではないでしょうか。国旗が配布されるまでは、学校によっては紙に赤くクレヨンを塗って国旗の代わりにしていたところもあったのですから。
三十年代にはいると、今度は沖縄の青年達に本土を見せてあげよう、ということで毎年三十人ずつわが方で招待するようになりました。その沖縄から来た青年達には、東京だけではなく小さいグループに分けて我々の組織を通して全国を廻ってもらいました。更に交流促進のために、我々の力だけでは無理ですから、政府にも持ち掛け、文部省としても青年グループと婦人グループを呼ぶようになりました。その一方では、こちらからも沖縄に行くようになりました。こうして本土と沖縄との人的交流が三十年代の前半から始まり、その結果、相互理解を深めることができました。
こうした活動を足場にして、沖縄の指導的な立場の人々との接点が生まれてきたので、次の段階として沖縄の将来をどうするかという問題にもとり組み始めたのです。アメリカに沖縄を日本に返還させなければならないのですから、その活動で肝心なことは、国民運動的な盛り上がりをつくることです。それで三十年代の後半になりますと、社会的に著名な人々に集まってもらって沖縄のことを話し合う場を設け、それをマスコミに紹介させて一般の国民の沖縄問題への関心を強めるようにしました。またその一方では、大衆集会を開催して復帰促進の運動を盛り上げ、国民的な輪を広げていったわけです。
四十年代に入ると、アメリ力側にも働きかけるために、ワシントン行きを始めました。一回目にアメリカに行ったときは、まだ壁が厚く、国防総省等に行って「おまえ達は負けたのを忘れたのか」「アメリカの将兵が血を流したのはどうしてだ」と罵倒されたこともあります。こうしたアメリカ政府への働きかけだけでは壁に穴をあけられないということが次第に判ってきました。それでライシャワー前駐日大使(当時)に会いに行きました。というのもアメリカの政策決定プロセスは、日本よりも日本専門家とかアジア専門家といった学者たちの関与する度合いが強い。表玄関から国務省や国防総省、ホワイトハウスに入らなければならないにしても、それだけではあまり効果がない。それぞれの所の政策過程で役割を果たしている学者を納得させなければならないと考えたからです。
■日増しに大きくなった復帰要求のうねり
こうして昭和四十四年一月の末には、アメリカから有名な学者達を呼んで日米京都会議を開催するまでにこぎつけました。後に話題になって誰もがロにした「核ぬき・本土並み・七十二年返還」というのは、この会議で生み出された原則です。
京都会議が終わったあと、今度は日本側だけで検討を重ね、三月八日に政府に対する提言を発表しました。それが翌九日の日曜日の新聞に全文載ったため、国会でさっそく話題になりました。社会党議員が、「昨日の新聞によれば民間の学者たちが『核ぬき・本土並み・七十二年返還』と言っているが、これについて総理はどう思うか」と質問をしたところ、それまでこういった類いの質問に対しては、「ただ今のところ白紙でございます」と答えていた佐藤総理も、「かねがね私か考えてきたことと大体同じ内容」と答えたのです。この首相発言を受けて、“首相、白紙に文字を書く”という見出しをつけた新聞もありました。こうして政府の側の方針が固まったわけです。
その後、アイゼンハワー元大統領の国葬の時、ニクソン大統領と岸特使との間で会談がもたれた際に沖縄問題が論議となり、その時に「核抜き」という点が焦点となったそうです。またこの会談の二ヵ月後に愛知外務大臣がワシントンに行った時、国務長官との話では、もう駆け引きなしで「核ぬき」ができるか、「本土並み」ができるかといった議論になっていったわけです。
その間の地元の沖縄の方々の動きについてですが、その頃の沖縄は、革新側の沖縄教職貝会がリーダーシップをとって沖縄復帰協議会(復帰協)という勢力に大結集していました。一方保守派はどうかと言いますと、その頃すでに自民党の支部も出来ていましたが、これは東京の本部の顔色を伺っているような情況でした。これに対して復帰協はそんなことにはおかまいなしに「返せ、返せ」と言って赤旗の波を作っていました。私達はこうした沖縄の動きをアメリカとの交渉に大いに利用しました。ワシントンに行っても、「沖縄では日に日に復帰要求のうねりは大きくなっている。この状態をこのまま放置しておくと、結局アメリカは自由に基地を使えなくなる。例えば嘉手納空港の滑走路にみんなが寝転んだらどうする。世の中には百パーセントはない。やはり沖縄を解放して、その沖縄に協力を求めるというほうが賢明ではないか」というふうにして、沖縄返還の必要性を訴えたのです。やはりそのパンチがきいたということでしょうね。アメリカサイドでもいろいろな動きが始まるのです。
■沖縄復帰、ついに成る
こうしたアメリカの動きに呼応してわが国で大きな働きをしたのが、各界の有力者を網羅して組織した総理の私的懇談会である沖縄問題等懇談会です。これが設置された経緯について少し紹介しておきましょう。四十一年八月、沖縄を担当している森清総務長官が、総務長官就任後初めて沖縄に行ってワトソン高等弁務官にあったときに、事務的な局長とか参事官とかに何も相談しないまま、全部返すのが無理ならば教育権だけ返さないか、と発言しました。これは以前からあった分離返還論の一つと言ってよいと思います。次いで翌年一月末、関西の大津で、「森総務長官は教育権を返せと言っているが、あなたはどうか」と新聞記者から質問された佐藤総理が「返すなら全部だよ」とこう答えたんですね。それで翌朝の新聞が政府見解不統一と大きく書きたてたのです。それで総理秘書官の楠田という人から私共に相談があったので、教育権だけではなく、全部返せというのは正論であるから、総理大臣の下に審議会を作り、そこで総合的に沖縄問題についてとり組めばよい、ということを総理に提案したのです。この提案に木村官房長官が乗り気になって、すでに総務長官の下での懇談会のメンバーであった人達に少し新顔を入れて生まれたのが通称沖懇と呼ばれた沖縄問題等懇談会でした。
これと私がそれまでに組織していたアメリカの学者と親しい日本側の学者達のグループとをドッキングさせ、それで政府にいろいろなことを要求しました。相当いろんな細かいことをやりましたよ。だから単なる役所ペースではなかった。結局沖縄返還協定によって昭和四十七年に沖縄が本土に復帰しました。それから今年でちょうど十五年になります。この沖縄返還は、領土が戦わずして戻って来た世界でも珍しいケースですね。
ですから復帰の時には本当に嬉しかったですね。武道館で行われる返還式典にも招かれてはいましたが、どうせなら汗を共に流した沖縄の仲間違と喜びを分ち合いたいと思って、那覇での復帰式典に参列しました。
■沖縄の人々との思い出
私は、沖縄には特別の思いがあるんです。沖縄にも随分足を運びました。勘定したことはないが、百五十回を越えているでしょう。ほぼ沖縄全部を廻りましたので、沖縄の人より地理に詳しいのではないかと思っているくらいです。今でも年に三回位は行っていますが、当時は多い時には年に六、七回位は沖縄に行ったのではないかと思います。その間には、沖縄の人達との様々な思い出があります。殊に、復帰までは革新のシンボルと言われていた星良さんや喜屋武さんやそれから保守派では今の知事の西銘さん等とは、超党派的につきあっていました。ワシントンから帰って来ると必ず沖縄に報告へ行ったものです。そしてワシントンの状況を伝えていました。
その折りには、復帰したら沖縄をどうしたいのかその青写真作りをやって欲しいということを話しまして、沖縄復帰研究会を各界から参加して作ってもらい、その研究の結果を沖縄等懇談会に正式に報告してもらいましたが、その中心には屋良さんや喜屋武さん等がいました。
屋良さんとの間には、こんなこともありました。戦災で焼けた沖縄の校舎がなかなか復旧しなかったんです。復帰前だから日本政府の援助も受けられない。それで彼と話し合いをして、募金のために本土の全国行脚を屋良さんがすることになり、私共はそれに全面的に協力しました。屋良さんは、「沖縄の学校は青空教室です。校舎を立てるのに協力して下さい」と言って全国を廻ったんですよ。当時のお金で六千八百万という大金が集まりました。それを持って帰ろうとしたら、送金まかりならないという米軍当局のクレームがついたのです。そして学校くらい米軍が作ってやるからということになった。ですから逆説的に言うと、カンパ活動をやったために米軍が今まで振り向きもしてくれなかった学校校舎を造ってくれたということになります。結局その募金のお金は何年かそのままにしておいて、やがて学校の備品を買うことで日の目を見ることになるのです。とにかく屋良さんは純粋にやっていましたから、大変な人気がありました。
■素朴な県民感情を利用する革新勢力
沖縄の場合、実際に戦闘行動があり、悲惨な戦争体験を実際にした生存者が大勢いますから、反戦的土壌があることはやむを得ないと思います。それはイデオロギーのいかんを越えてある素朴な県民感情だと思うんです。ただ復帰後は、それをイデオロギー勢力が利用して増幅しているわけですよ。これは内地と違うところでしょうね。
復帰までは、革新の中心にいた屋良さんでも喜屋武さんでも日の丸を担いで先頭に立つぐらいだったのです。国旗配布運動をしていたとき、感涙にむせびながら大国旗をさばいてくれていた屋良さんや喜屋武さんが、復帰後は国旗に反対しているのですね。今の文部省による国旗掲揚運動は、右傾的なものだから賛成出来ないというのがその理由ですが。
また復帰後は視野が狭くなったように思います。四十七年秋の園遊会に初めて屋良さんと沖縄県遺族会の金城会長が招待されたんです。その時、屋良さんから、招待を受けたものかどうか我々に相談があったこともありました。「行きたくなかったら行かなければいいじゃないですか。その代わり本土から援助を貰うのをやめなさい」とこう答えたら、「それでは行きますか」ということで、園遊会に屋良さんは行ったんです。結局、革新勢力に突き上げを食らうから、という内心の葛藤をあの人達は常にしているわけです。うるさい連中が周りを取り巻いていますから。本人自身の気持ちの上では、園遊会に招待されたことに感激していますし、実際に参会して天皇陛下にお会いすれば大感激するんです。
この時の園遊会に関連してですが、実は、遺族会の会長の金城さんに「ぜひ陛下に沖縄にきて戴きたい」ということを申し上げるように勧めていたんです。ところが陛下から「遺族も苦労したんだろう」というお言葉を賜ったところ、金城さんは明治生まれですからお声がかかった途端に直立不動になってしまって口がきけなくなってしまったんだそうです。そういうこともありました。
■豆記者の歌と踊りにお喜びの両陛下
ここで皇室と沖縄県民の交流についての、私自身の体験を紹介しましょう。皇居には、桃華楽堂と呼ばれている小音楽堂があります。この建物は、皇后陛下様が還暦をお迎えになったとき、日本政府がお祝いとして献上したものです。この桃華楽堂において、沖縄の小・中学生による歌と踊りを両陛下に見ていただいたことがあるんです。
実は、まだ復帰前の昭和四十七年に豆記者後援会という組織を会長に大浜さん(元早稲田大学総長)、副会長に沖縄側が屋良さん、こちら側が私ということで作りました。そしてその事業として、本土・沖縄豆記者交換計画というのを始めたんです。東京の中学の新聞部の先生たちが中心になってやってきたのですが、夏休みに向こうからこっちに豆記者を招待するわけです。これは現在も続いています。
この計画が続いていくうちに、沖縄の先生方が積極的になってこられて、「皇太子殿下に沖縄の豆記者遥かお目にかかれないだろうか」という要望を出してこられた。それで東宮にお伺いをたてたところ、豆記者が皇太子殿下にご挨拶を申し上げるいうことが実現することになりました。殿下は、夏、軽井沢においでになるので、その軽井沢のプリンスホテルで、毎年八月に沖縄の豆記者がご挨拶することが恒例行事として行われるようになったわけです。
そうなるとただ沖縄からの豆記者というだけでは面白くないから、この次のチームには踊りのうまい者を連れて来てもらって、殿下の前で踊ってお見せしようということになった。そういうことを繰り返しているうちに、殿下の方から「天皇陛下に踊りをお見せしてはいかがであろうか」というお話があったのです。それで、格別に歌と踊りがうまい者を選んでもらって、皇居に連れて行ったことがあります。一番小さいのが小学校の六年生、あとは中学生でした。
最初は歌を少し歌って緊張をほぐしておいて、それから得意なものを何種類か踊って陛下にお見せしたわけです。両陛下とも大変お喜びになりました。
終わってから子供たちを皆連れて、陛下からお言葉を賜りました。陛下のお言葉は「よく踊ってくれた。楽しかった。これからもしっかり勉強しなさい」というものでした。普通なら皇后陛下様は一緒にお立ちになって陛下のお言葉にうなづきながら聞いていらっしやるだけだそうですが、この時には陛下のお言葉が終わりましたら、ご自分でもお言葉をおかけになられました。これは割合に珍しいことなんだそうです。非公式の席ではありましたが、子供達は期せずして両陛下からお言葉を賜ったわけですね。子供達の親にとっては大変な名誉なことで、親達も感慨ひとしおでした。
この時、宮古島の子供達もいたものだから宮古島の小学校の校長先生が引率者として同行しておられたのですが、この方から、私は後でなじられてしまいました。「こんな計画があるのならば、何故最初から教えてくれなかったのか」と言うのです。私としては、あまり表だって話題にしてはいけないのでさりげなく言っておいたんですね。ところがこの校長先生が言われるには、「沖縄には沖縄の『君が代』というのがあるから、それを用意して踊らせたかった。何故あらかじめ言わなかったのか」ということなのです。それほど校長先生にとっても感激が大きかったわけです。
この沖縄の「君が代」は、中心を求めるという意味を持っているんだそうで、沖縄の琉球王に対して歌ったともいえるし、天皇様に対して歌ったともいえるとのことです。
この沖縄の豆記者のエピソードからも伺われることですが、皇室の方々は沖縄に関しまして、深い御慈愛と御同情をお持ちであると思います。皇太子様からは、陛下にはことのほか沖縄のことにお気持ちがあられるということを承ったことがあります。その皇太子様ご自身も、沖縄について大変勉強しておられます。沖縄の古い言葉とか、琉歌という沖縄に伝わる伝統的な歌謡についても大変にご造詣が深いのです。
■陛下の奉迎で変わる沖縄の空気
陛下は沖縄だけには行幸になっておられませんので、今回の海邦国体ご出席が初めての行幸となります。もっとも陛下は、皇太子時代にヨーロッパに御外遊される途中で沖縄にお立ち寄りになられたことがあります。私共が承っているところでは、皇太后様がお召艦「香取」の艦長である漢那提督が沖縄出身だから沖縄に寄ったらどうかと仰せになったからということです。
こうしたことから、沖縄にお立ち寄りの計画となったそうです。そして中条湾というところ艦を泊め、そこから上陸になり、首里においでになったのです。当時、沖縄には自動車らしきものが一台だけしかなかったそうです。しかもその車のシートがボロボロであったので、これでは相なるまいということでお供の者を含めて人力車でおいでになったわけです。
私か聞いたところによりますと、陛下の人力車の引き手には屈強の青年達から厳選に厳選を重ねて十一名を選んだということだそうです。彼らは一月前から合宿して食事管理を受けて備えていたということです。陛下は尚家(元の琉球王家ですが)で御小憩になって地理の報告をお受けになりましたが、すぐ隣には沖縄師範学校がありましたからその生徒たちがマスゲームをお見せする準備をしていたそうです。ところが地理の説明が長くなってマスゲームはカットされてしまった。先程から話が出ていた屋良さんは当時師範学校の生徒でマスゲームを待機していてお見せ損なった一人だそうです。後に副知事になった知念さんという人からは、小学校六年の時で、沿道で小旗を振ったと、当時のことを聞いたことがあります。ですからもし陛下がおいでになれば、沖縄は戦災と戦後の復興とで前に陛下がご覧になった光景とは変わっていますから、おそらく深い御感慨をお持ちになるのではないでしょうか。
今回の陛下の沖縄行幸が実現することになったことについては、実に感慨ひとしおのものがあります。皇太子殿下が海洋博へのご出席のため沖縄に初めて行啓になられた時には、火炎瓶事件に遭われましたが、今回はきちんと行幸をお迎えできたらと思っています。また沖縄に残っている特殊な空気も、陛下の奉迎によってきっと変わると思います。そして沖縄の人達にもっと素直な気持ちになって地域の発展に尽くしていっていただきたいと思いますね。