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【特集】よみがえる感激―今上陛下の皇太子時代の沖縄御訪問(月刊誌「祖国と青年」昭和61年06月号)

祖国と青年論説・オピニオン

■はじめに

来年沖縄で開かれる〝海邦国体〟を機に、陛下の沖縄御訪問が実現することとなった。天皇が沖縄を訪れられるのは史上初のことであり、ことに戦後の長い米軍政下を経て本土復帰を果たすという特殊な体験を持つ沖縄県民の方々にとっては、感慨一しおのものがあると思われる。多くの心ある県民の方々は、陛下の御来県を心待ちにし、また国体の成功を願っているのである。全国民こぞってこの慶事をお祝い申し上げるべきであろう。

しかし、遺憾ながら沖縄の地においては、県民のごく一部とはいえ、陛下の御訪問に反対する人々がおり、強力に反対運動を推進している。教育現場においては〝海邦国体〟を前に、「日の丸掲揚、君が代斉唱」の実施を徹底しようとしている県当局とこれに抵抗する沖教組・沖労協との間で激しい対立が生じているのである。この三月、四月に行なわれた卒業式、入学式においては多くの学校で大混乱となり、また現地の新聞等マスコミでは連日の如く論争が交されている。その上、更に本土から反対派が続々と入沖し、反対運動を煽動しているのである。こうした現状をみるとき、決して今後を楽観視することはできない。

沖縄戦において本土の防波堤たらんとして南の地に散華せられた多くの英霊の方々の心情を思うとき、陛下の沖縄御訪問が成功裡に終わるべく、心ある県民の方々と共に手を携えて行くべきであろう。

この企画がその一助ともなれば幸いである。

■陛下をお待ち申し上げる沖縄 (元琉球政府文教局長)

各県持ち廻りの国体の最後の〝しめくくり国体〟が沖縄県開催と決まり昭和六十二年に挙行されることになった。国民体育向上のための国体である。国民体育向上は全県民の関心事であらねばならないが、その責任の大半は教育界にあるといわねばならない。しかるに沖縄県教職員組合や、沖縄県高教組は国体反対も辞しかねないという強硬姿勢を見せてきた。

理由は国体で国旗掲揚、国歌斉唱があることと天皇御臨席のあることである。
日本全国慣行を否定するこの理由を見ると、一体沖縄は本当に日本の一県であるかと疑いたくなる。

昭和三十二、三年頃、時の文部大臣が来県された。これを歓迎するために大臣の通る沿道、小・中・高生が日の丸の小旗を手にしての大歓迎であった。大臣は感激して真の日本人教育は沖縄にあるんだと評された。その、かつての日本人教育が、沖縄の教員組合が日教組に加盟するに及んで掌を裏返しだように、沖縄戦の悲惨を理由に反戦運動の一環として、日の丸、君が代反対、天皇御来県反対の運動を行なうようになってきた。

沖教組か日教組に加盟した時の解明書には、「平和な社会を求めようとする吾々人民の念願は、労働者階級の高い自主的な成長なしには達成されない。教師はいうまでもなく労働者である。日本の教師は全労働者とともに事態が困難、を加えれば加えるほど、ますます団結を固めて、青少年をまもり、勇気と知性をもってこの歴史的課題の前に立たねばならない。」とあるから、沖縄教職員合の組合移行をもくろんだ人たちの意図もどこかにあるかが分かる。それはまったく日教組綱領とおなじである。

沖縄戦を経験したことで、このような過激な思想転換があったが、しかし、沖縄県民の歴史的理解は、このような日教組同調は一時的なものでやがて三千年の歴史的伝統でつくられた大和心に回帰するはずである。沖縄戦でも沖縄県民は、鉄血勤皇隊や姫百合部隊のような働きをしてきた。時の海軍司令官はその殉難に先立って「沖縄県民はかく戦えリ、戦後沖縄に格別の配慮を乞う」と要路に打電した。

こう考えたるには、沖縄の日の丸、君が代反対運動は、一部つっぱり連中の言い出したもので、永続するものではない。大和心の伝統を心に固く守っている心ある県民大多数によって、やがて圧倒されるはずである。

吾々大多数の沖縄県民は、来るべき国体には、日本の一県として、各県の慣行に従って日の丸を掲げ、君が代を斉唱して、日本各県を一巡してのしんがりの沖縄海邦国体を有終美をもって完結させたいと期待し、実現させる固い決意を持っている。幸に西銘県知事が宮内庁の御内意を受け、天皇陛下の御臨席が確定との報が伝えられるや、県民はあげてお待ち申し上げる喜びに湧いている。

今上陛下はお若い、多分二十歳におなりになったばかりの、皇太子殿下の時に、欧州御歴訪の途次、沖縄県にお立ち寄りになられた。御召艦「香取」でおなりになり、その艦長が沖縄出身の海軍大佐漢那憲和であった。郷土出身の海軍大佐が御召艦長であったことは、県民に深い感銘を与えた。県民は歓迎の歌を歌い、日の丸を手にし、沿道が旗の波に埋れたことを覚えている。

そしてそれから六十余年後の今日、再び陛下をお迎えすることは、県民として本当におなつかしい限りで、心よりお待ち申し上げる次第である。

■思いでの行啓(洋裁師)

大正十年・春は弥生の六日、南の島沖縄はもう初夏を思わせるような陽気でした。古い都首里も、商業都市那覇も、二ヵ月後には市制が施行されるとは言っても、街々は未だ昔のままのたたずまいでした。その日の沖縄は、皇太子(現・天皇)の初の行啓を奉祝すべく、島中が大変厳かな賑わいだった事を私は子供心に覚えています。

皇太子は訪欧途次、沖縄にお立ち寄りになった訳ですが、その時のお召艦「香取」の艦長を地元出身の漢那大佐が勤めたこと右あって、奉祝ムードはこの上なく高まったようです。艦隊は沖縄中部の中城湾に停泊し、御一行は与那原から軽便鉄道で那覇にお入りになったようです。そして沖縄県庁から、首玉の尚侯爵家を御訪問される道すがら、県民の祝福をお受けになったのです。その際、既に準備の整った特別電車では、沿道の県民が皇太子のお顔を拝めないと言うことで、急きょ人力車に替える事になったそうです。沖縄にはそれより五年も前に、自動車は移入されていた事になっていますが、若しや当時の自動車は今日のような安全な乗物ではなかったのではないでしょうか。

当日は市内の小学校三年生以上の生徒は、日の丸の小旗を持って団体で沿道に参列したのですが、小学一年の私はそれにも参加出来ず、何時までも続く厚い人垣で、通りの見えない崇元寺の石門付近を右往左往していました。その崇元寺は臨済宗に属する国廟で、歴代琉球王の霊位を安置する菩提寺で、当時はその石門も含めて国宝に指定されていたものです。

辺りの様子から御一行の車の隊列の近い気配がした時、私は焦った。そして、あろうことか、すぐ目の前にある文化財の下馬碑の石台に夢中になってかけ上がっていました。人垣の上に視界が開けた。そこは丁度皇太子のお車の通りかかられるところでした。しっかりと梶棒を握った頑強そうな車夫に、二人の後押し役の付き添った人力車の上では、紺の詰襟姿の青年皇太子が元気なお姿で、沿道の群衆にお答えになって居られました。そしてその後方には更に十数台の人力車の列が続いていました。

「ああよくみえる。」と思わず叫んでしまったその時、確かに殿下が私の方をお向きになった、と今も私は思っています。そして次の瞬間、私は巡査の大きな手で石碑の台から引き下されて居ました。まぶたを閉じると今も浮かぶ古里の遣い日、何処までも澄みわたる空、燦々と降りしきる太陽に、でいご、黒ヨナジンギの亜熱帯植物の濃い緑の並木、そこを行く人力車の隊列、皇太子の英姿、通りを埋め尽くす歓迎の人人人の波。六十五年も前の、そして私の生涯の大きな思い出での一つです。

そして今沖縄は、来年の海邦国体の際の、天皇の御来訪に就いて、賛否両論が持ち上がっていますが、私は論拠は兎も角、天皇として初めての御行幸を心からお待ち申し上げる者の一人です。

 

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