明星大学戦後教育史研究センター
勝岡寛次
■はじめに
今年の四月頃だつたか、ある沖縄の方から筆者の勤務する戦後教育史研究センターに、かういふ問合せの電話がかかつてきた。「今、沖縄では集団自決の『軍命令』を削除させた文科省の検定に対して反対運動が起つてゐますが、集団自決を最初に日本軍の『命令』と書いた『鉄の暴風』は、占領下で本土の朝日新聞社から出版されてゐます。これは、占領軍の行つたウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムだと思ふのですが、どうでせうか」と。
この「突飛」な質問(その時はさう思つた)に絶句した筆者は、かう答へた。「いや、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは私の知る限り、東京裁判で終つてゐる筈です。一九五〇年に出された『鉄の暴風』とは関係ないでせう。ただ、沖縄のことは私もよく知らないので、時間がある時に少し調べてみませう」と。
あれから半年、様々な資料に当るうちに、筆者は自分の不明を恥ぢねばならぬ仕儀となつた。「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(War Guilt InformationProgram)といふ名の情報宣伝計画ではないにしろ、本土に匹敵する、或いはそれ以上の熾烈な「心理戦争」が、沖縄戦では展開されてゐたことを初めて知つたからである。
■米軍の仕掛けた、対沖縄「心理戦争」
「心理戦争」(Psycological Warfare)といふ語には不案内な読者が少なくないと思ふが、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて米国で研究・開発された、心理学的手法に基づく「戦時プロパガンダ」の謂ひである。米国は、第二次世界大戦の太平洋戦域で初めて本格的な心理戦争(心理作戦)を遂行し、当初の目的を達成したことを自負してゐたといふ(保坂廣志「米軍の対沖縄心理戦争」、『沖縄県史』資料編2解題)。 米軍が対沖縄侵攻作戦の計画・立案を開始したのは、一九四四年十月のことだといふが、これに先立つ同年六月一日付で、ハーバード大学のアルフレッド・M・トッツァー教授が「琉球列島の沖縄人||日本の少数民族」と題する対沖縄心理作戦計画案をまとめてゐる。これを見ると、頗る興味深いことに、最後の方で次のやうに勧告してゐる。
○亀裂の利用
沖縄人と日本人の間のひびを現在の戦争に利用する事はできるだろうか。(中略)沖縄人は踏みつけにされてきた、という考えを増大させ、そして日本人全体と対比させて沖縄人としての自覚を持たせるように方向づけをする宣伝活動、即ち懐柔策は、実を結ぶ可能性がある。…彼等の領土や国に侵入しようとする敵の計画を黙認するという状態になる可能性はある。
○沖縄の作戦上の有益性
(中略)従って様々な心理作戦においては、…この2つの日本人グループ間の亀裂に重点を置くのがよいと思われる。沖縄人自身、戦争の執行における我々の代理としてこの作戦に利用できるかもしれない。
(『沖縄県史』資料編2)
この心理作戦は、大東亜戦争で日本軍と一体となつて戦つてゐる沖縄県民に対し、日本人とは別個のアイデンティティを強調することで、両者の「亀裂」を拡大させ、沖縄県民を米軍の味方につけようとするものであつた。
かうした心理作戦(心理戦争)は、太平洋戦域では沖縄で初めて採用されたものである(『沖縄県史』資料編12解題)。一九四五年一月六日付で策定された沖縄侵攻作戦(アイスバーグ作戦)の「心理戦計画」(付属文書4)に基づき、米軍は日本軍と沖縄県民の心理的離間を促進する二十五種類・八〇〇万枚にも及ぶ宣伝ビラを用意し、沖縄本土上陸(四月一日)に先立つ三月二十五日から、これを沖縄全土に投下した。
典型的なビラは、いづれも表面は兵士向け、裏面は住民向けだが、ここでは後者の文面から幾つか紹介したい。
(No.…とあるのは、ビラに打たれた識別番号)
No.525
(一九四五年四月一日投下、ビラ裏面)
住民に告ぐ
日本軍は食物でも飲水でも沢山持つてゐます。(中略)
皆様が自分で生活が出来ない様になつたのも日本軍の為です。日本軍が町の中に留まつて居た為に皆様の家が壊され生命が危くなり、とう??日本軍に頼らなければならなくなつたのです。(『沖縄県史』資料編2)
実際のビラを見ると、真つ先に目に飛び込んでくるのは、日本兵がさもうまさうに水を飲んでゐる写真である(左図を参照)。当時の沖縄は、既に水も食料も底をついた状態だつたことを思へば、このビラを拾つた沖縄県民がどう思つたかは想像に難くない。日本兵に対する不信感をかきたてることが目的だつたことは、本ビラの作成原稿の注に、「住民と軍人との間に溝を生じさせるべく計算されている」と明記してあることからも明らかである(同右)。
No.530
(四月三~四日投下、ビラ裏面)
…皆さんは何も心配することはありません。アメリカ軍は皆さんが一日も早く家族と一緒になつて平常通りに暮せる様にしてあげたいのです。(中略)アメリカは内地人と戦つてゐるのです。ですから戦をしたくない沖縄の皆さんを苦しめたくはありません。
このビラの作成原稿には、「目的」として「後に米軍が与える指示を受け入れる心理状態を住民の中に作り出すこと」とあり、「米軍は人道にのっとり住民の権利を大切に考えていることが示され、彼等の信頼を得るように計算されている」と注記されてゐる。?米軍の敵は「内地人」(日本兵)で、皆さんではありませんよ。皆さんは味方ですよ〝と呼びかけることにより、沖縄県民を巧みに懐柔してゐる訳である。
No.531
(四月四~五日投下、ビラ裏面)
此の戦争には皆さん達は関係ないではありませんか。
皆さん達は戦ひたくない。然し思ひ掛けもない苦労や損害を受けてゐます。(中略)内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。(中略)日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしてゐる事は皆さん達に明らかでせう。此の戦争は皆さん達の戦争ではありません。唯貴方達は内地人の手先に使はれてゐるのです。
このやうに、多くのビラが日本軍と沖縄県民を心理的に離間させ、両者を意図的に対立させる効果を狙つてゐたことは、見逃せない重要なポイントである。
■米軍の心理作戦の”成果”
さて、かうした米軍の心理作戦は、実際にはどれほどの効果を生んだのか。
渡嘉敷島の集団自決に失敗して、米軍の捕虜になつた沖縄県民の姿を、当時の米国の新聞が次のやうに報じてゐる。
侵攻軍の米兵にひどい扱いを受けるという、日本当局によって巧みに植え付けられた恐怖心がかれらをこうした行動に駆り立てたようだ。(中略)すべてが終り、生き残った島の人達は、米軍が手厚い医療を施し、食物や住む場所を提供してくれるのを見て驚いていた。上陸前の爆撃で負傷した自分の娘を絞しめ殺したある老人は、捕虜となった婦人達が米兵の良心的な処遇を受けているのを見て、自ら娘の命を絶ったことに後悔の涙を流した。
(ワシントン・ポスト、一九四五年四月二日付)
住民たちはそれまで、「米軍にまつたら女は全員強姦され、男はブルドーザーで轢き殺される」といつたふうな話を本気で信じ込んでゐたのだが、かうした思ひもかけない米軍の「厚遇」(実はこれも心理戦争の一部だつた)によつて、日本軍に不信感を抱き始め、今度は自分たちの仲間に対して、積極的に投降を呼びかけるやうになる。しかし、これは戦闘中の日本軍から見れば通敵(スパイ)行為であり、許し難いものだつた。かくして日本軍と沖縄県民の一体性は破れ、「亀裂」が拡大するのである。『沖縄県史』に多数掲載されてゐる手記にも、この間の機微を窺はせるものが、幾つもある。最初に紹介するのは、渡嘉敷島郵便局長だつた徳平秀雄氏の手記。
日本軍は、もっぱら食糧あさりにあけくれている仕末でした。ところが、この日本兵たちは、私たちを監視しているのです。私たちも、米軍は住民に危害を加えないことは、とっくに知っていました。渡嘉敷村内には伊江島の人たち約千名が、米軍の保護を受けていましたし、私たちが、米軍に投降することを恐れたに違いありません。私の一挙手一投足には、背後から日本軍の目が光っていたのです。(徳平秀雄「渡嘉敷島の集団自決」、『沖縄県史』10、沖縄戦記録2)
しかし、かうした住民側の証言も、軍側から見ると全く異なった姿に見えてゐた。次は、渡嘉敷島で赤松隊長の副官をしてゐた知念朝睦氏の手記である。
集団自決や米軍の攻撃で深い傷を負った人たちが、米軍に救われ、回復して戻って来ると、とたんに村民は、米軍に対する考へ方が変って来たようでした。
村長や助役や郵便局長が、山を降りて、米軍に投降し、こんどは、村民を山から降ろすために、いろいろ宣撫工作をしていることにまでなっていました。
軍隊にとっては許しがたいことで、スパイ行為です。夜陰にまぎれて村民がぞろぞろ山を降りる情景が見られました。(知念朝睦「副官の証言」、同右所収)
このやうに「米軍に対する考へ方が変って来た」沖縄県民の事例は、枚挙に遑がない。
その頃、食糧をとったという理由で一人の兵長や朝鮮軍夫が銃殺されたため、私達は恐ろしくて軍に反抗できませんでした。したがってこれまでアメリカ兵が敵であったものが、遂に日本兵が敵のように思え、一緒にいて毎日びくびくの状態でした。
…ビラがおちてくるのを部落民が拾いに行こうとすると日本兵が「あれは毒がぬられた紙だから絶対にとってはいけないぞ、あれをさわると死んでしまうから。」とおどかしていたが、私達はそんなことにかまわず拾ってみた。すると、戦争はおわり、日本は負けてしまったから降伏するように、というような内容の文章が書いてありました。〔引用者註:この筆者は、実際米軍ビラを拾つて読んでゐることに注意〕(金城初子「南洋引揚者」、同右所収)
その頃から、部落民はアメリカ軍よりも、次第に、味方であるはずの日本兵に恐れを抱くようになり、逃亡する人が目立ってでてきました。(中略)ふだん日本兵から、捕虜になった時のアメリカ兵の態度がどういったものか何度も聞かされていましたが、その時点ではもう、お腹を満たしてさえくれるのなら、という気持ちが強く、うわさなどは問題にしませんでした。(柿花武一「阿嘉島の戦闘経過」、同右)
部落の人たちはみんなそのような目にあい、〔日本軍から〕なぐる、けるの暴行をうけた人が多かった。(中略)その頃から私たちは軍に不信を抱き、アメリカ兵よりもこわくなっていました。(仲地和子「自決を思いとどまって」、同右)
判でも押したやうな「同工異曲」ぶりを示す、かうした住民の手記は、一体何を意味するのか。
一方、米軍は米軍で、かうした沖縄県民の態度の変化を次のやうに評価してゐた。
彼等〔沖縄県民〕は従順で協力的になり、殆ど福音伝道者のような熱心さで、隠れ場所からでてくるよう、他の民間人達に勧め始めた。
こうした協力は、まだ山の中に留まっている日本兵達には大きな怒りを呼び起こし、彼等〔日本兵〕は一部の民間人に酷い暴虐を加えた。(中略)
…沖縄人の目から見れば、こうした攻撃は日本軍以外の誰の仕業でもないことは疑う余地がなかった。
…最終的には明らかに我々にとって有益な結果をもたらした。つまり、民間人は日本兵を敵、アメリカ人を友とみなすようになり、従って彼等の長期的協力が…確かなものになったのである。
(「民間人に対する日本軍の虐殺の影響」、一九四五年五月二十四日付、『沖縄県史』資料編2)
米軍の捕虜になつた住民が、「日本兵を敵、アメリカ人を友とみなす」やうに変つていつたことは、米軍の心理作戦の?成功〝を物語る以外の何物でもなかつた。七月二十九日付の米第十軍司令部「情報部週間報告書」には、かう記しるされてゐる。「多くの民間人が我々の宣伝ビラを持っており、保護されたがっている」と(同右所収)。
日本軍と沖縄県民を心理的に離間させ、敵対させるといふ米軍の心理戦争は、かうして百%彼等の思惑通りに進行したのである。
■『鉄の暴風』執筆の背後にあつたもの
捕虜となった住民が「日本兵を敵」と見做すやうになつたことは、同年七月二十五日に沖縄人捕虜世話人から米軍司令官宛に出された次のやうな書状に、典型的に現れてゐる。
今期の米軍沖縄上陸作戦に移りますと、日本軍将校は全く赤鬼と化し、下士官は赤鬼の先鋒とし、か弱き沖縄の老若男女を銃剣を以って戦線に狩り出し、ある者は急造爆雷を担がされ、ある者は女故、彼等将校、下士官兵の憎らしい慰め者の犠牲とされ、ある者は極大事な糧食を奪われて飢餓に苦しみ、ある者は壕より追い出されて銃撃、爆撃、砲撃の犠牲となり、ある者は「スパイ」視され残酷な銃殺を受け、親を亡くす者、可愛い子を失う者、全くこの世の大地獄を現出し、何等ら罪無き沖縄人が、見るも無残な死骸を野山にさらしました情景は何と考えましょう。
(上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』)
その一方で、米軍に対しては翌一九四六年四月十六日付で次のやうな感謝状が送られてゐる(元沖縄県会議長新垣登太から軍政府副司令官ムーレー大佐宛)。
…米軍政府の心暖まる援助により地元民に衣食住が与えられ、我々は徐々に心の平静さを取り戻しつつあります。我々は米軍政府に対する深い感謝の念に心動かされて居ります。よって我々は、米軍政府に協力し、沖縄の自治再建に身を捧げんとするものであります。
…全ての沖縄人は深甚な感謝の念を抱いて居ります。これもひとえに軍政府に負うものであります。(『沖縄県史』資料編2)
沖縄戦記『鉄の暴風』も、同様に「日本兵を敵、アメリカ人を友とみなす」歴史観で書かれてゐることは、その「まえがき」に「われわれは、日本軍国主義の侵略戦の犠牲となった」とあること、また初版の「まえがき」だけにあつて再版以降は削除されてゐる次のくだりに明らかである。
われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を越えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、厚生第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい。
それでは『鉄の暴風』は、いつ、誰が、どのやうな動機から、どのやうな方法で書いたものなのか。
第一の問ひである「いつ」といふことは、比較的はつきりしてゐる。初版が刊行されたのは一九五〇年八月十五日(沖縄タイムス編、東京朝日新聞社刊)だが、本書は沖縄タイムス創刊(一九四八年七月一日)当初からの企画であることが、監修者の証言によつて明らかである。
高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年〔一九四九〕五月、本書編さんを、豊平(監修)牧港(執筆)大田(同上)の三名に託し、半歳を経て、上梓の運びに至つたのである。(豊平良顕「?鉄の暴風〝と記録文学|沖縄戦記脱稿記」、『月刊タイムス』一九五〇年一月号)
第二の問ひである「誰が」といふことも、右証言により一見して明らかなやうに見えるが、証言の続きに次のやうにあるのを見ると、事はさう単純ではない。
沖縄戦記の刊行をタイムス社が承つたことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う。(同右)
当時は米軍の直接統治下で、出版前に米軍の検閲を受ける必要があつた。『鉄の暴風』も脱稿後に英文を提出してをり、実際に許可が下りたのは一九五〇年七月一日のことである。にも拘らず、脱稿直後の一九四九年末の時点、米軍の検閲次第では原稿が「没」になるやもしれぬこの段階で、既に「刊行をタイムス社が承つた」と述べてゐる。
このことは、何を意味するか。二通りの解釈が出来る。
一つは、最初から米軍がかかる戦記刊行を指示し、それを「タイムス社が承つた」可能性。この場合は、書いたのはタイムス社の記者だらうが、本書を構想した真の著者は米軍といふことになる。もう一つの解釈は、最初からタイムス社が企画して書いたが、執筆段階からその構想を米軍に話し、事前に米軍の了承を取つてゐた可能性。そのいづれの場合にせよ、米軍が本書の刊行に深く関与してゐたことを示すもので、本書は「米軍主導」、もしくは「米軍の了解」の下に構想された著作である、と言はねばならないのである。
第三の問ひ。では、どのやうな動機から、本書は書かれたのか。監修者の豊平は、刊行直前の座談会で次のやうに述べてゐる。
今まで出た戦記が余りに軍中心主義であり、住民は虫けらの如く扱われているのに対し私達は、特に人間の尊厳と云う点から住民の動きに重点を置きました。
(座談会「鉄の暴風が出来上がるまで」、『沖縄タイムス』一九五〇年八月十四日付)
「軍中心主義」に対する「住民中心主義」といふことであらうが、これは日本軍と沖縄住民を心理的に離間させ、敵対させることを企図した米軍の心理作戦に完全に呼応するものであつた。或いは前記の如く、米軍自身が「心理作戦」の一環としてかういふ沖縄戦記を構想し、それを沖縄タイムスが「承つた」に過ぎないのかもしれない。
第四の問ひ。それでは、どのやうな方法で沖縄戦記『鉄の暴風』は書かれたのか。沖縄タイムス社自身は、この点を次のやうに説明してゐる。
豊平良顕(現沖縄タイムス相談役)座安盛徳(現琉球放送社長)氏らが沖縄戦記編さんのプランを立てたのが一九四九年五月、市町村長会にも協力を要請し、手記、日記類の資料が続々と集められた。直接執筆した牧港篤三(現沖縄タイムス常務)大田良博(現琉球新報勤務)氏らも地方を回ってインタビュー、座談会による取材をした。
(中略)資料収集に三カ月を費やし、執筆にかかって同年十二月には脱稿した。(『沖縄の証言』上巻)
五月にプランを立て、資料収集に三ヶ月を費やし、同年十二月には脱稿したといふのだから、執筆期間は正味三ヶ月といふことになる。
執筆担当の二人の記者も「地方を回ってインタビュー、座談会による取材をした」とあるが、突貫工事で匆々の間に仕上げねばならなかつた『鉄の暴風』には、想像だけで描いたとしか思へない作り話が、至る所に見受けられる。
その典型的な例が、集団自決の「軍命令」なのである。
■沖縄戦集団自決は、かくして「軍命令」にされた
渡嘉敷島の集団自決について、『鉄の暴風』はかう書いてゐる。
…恩名河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。…」(中略)
日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき、赤松大尉は「…まず非戦闘員をいさぎよく自決させ…」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。
『鉄の暴風』のこの記述に対し、最初に疑問を呈したのは、よく知られてゐるやうに作家の曽野綾子氏であつた。
曽野氏は昭和四十六年七月、ここに出てくる副官の知念氏に直接インタビューを試みてゐる。
「地下壕はございましたか?」
私は質問した。
「ないですよ、ありません」
知念氏はきっぱりと否定した。
「この本の中に出て来るような将校会議というのはありませんか」
「いやあ、ぜんぜんしていません。(中略)」
つけ加えれば、知念氏は少くとも昭和四十五年までには沖縄の報道関係者から一切のインタヴューを受けたことがないという。(曽野綾子『ある神話の背景』)
この驚くべき証言で初めて明らかになつたことは、『鉄の暴風』を執筆した沖縄タイムスの記者が、会ったことすらない知念氏を文中に勝手に登場させ、小説でも描くかのやうにただ想像に任せて書きなぐつてゐた、といふ事実である。知念氏は、隊長の「自決命令」があつたこともきつぱり否定してゐるから、もし沖縄タイムスの記者が知念氏に会つて事実の?裏〝を取つてゐたなら、かういふ出鱈目は決して書けなかつた筈なのである。
このことは座間味島についても同様で、『鉄の暴風』は座間味島の集団自決について、次のやうに書いてゐる。
…米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。(中略)
日本軍は、…最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。
冗談ではないのであつて、梅沢隊長は現在も存命である。
流石にこの件だけは拙いと思つたか、現行版では破線の部分は削除されてゐるが、「隊長梅沢少佐のごとき」といふ表現には、日本軍に対する露骨な「敵意」が感じられる。
それにしても、何故『鉄の暴風』は集団自決を「軍命令」と明記したのだらうか。最後にこの問題を考へてみたい。
『鉄の暴風』は、米軍を意識して「一種の自己検閲の心理」状態で書かれたことを、沖縄タイムス社自身が次のやうに証言してゐる。
…印刷物は米軍の許可を受けなければならず、米軍を意識してペンの動きはにぶくなり、一種の自己検閲の心理が働いた。「鉄の暴風」は、そういう環境で書かれた。(『沖縄の証言』上巻)
では、どのやうな「自己検閲の心理が働いた」のか。『鉄の暴風』執筆と同時期(一九四九年五月)に、以下のやうな「検閲規定草案」が県民側(情報統計課長川平朝申)から米軍宛に提出されてゐる。
天皇現人神主義、封建主義、軍国主義、財閥、武士道、大東亜、自殺あるいは、自由人の本然の権利を否定するすべての思想、又は信仰(仇討を美徳とする思想)を賛美すべからず。非民主的封建思想に対する盲従的伝統に従い、民衆の利益をジュウリンすべからず。(門奈直樹『沖縄言論統制史』)
実はこれと似たやうな言葉遣ひは、『鉄の暴風』の監修者の発言の中にも見えてゐる。
…特攻隊の作者が、誤つて抱かされた特攻精神を、清算もしえないで、記録文学を書いたとしたら、戦場への郷愁をそゝる作品となつて表れ、正しい記録文学から逸脱してしまう。超国家主義、帝国主義、独裁主義、封建主義等の人間を不幸に陥れる、誤つた思想からは、正しい記録文学は生れない。(前掲、豊平「?鉄の暴風〝と記録文学」)
両者に共通してゐることは、「天皇現人神主義、封建主義、軍国主義、財閥、武士道、大東亜、自殺」或いは「超国家主義、帝国主義、独裁主義」といつたものを、「自由人の本然の権利を否定する思想」「人間を不幸に陥れる誤った思想」と捉とらへ、これを全否定してゐる点である。
正まさにこれらの項目は、本土でも占領軍が検閲基準として掲かかげたものだが、この中に一つだけ、本土にはなく沖縄にだけ規定されてゐる項目がある。それがゴチックで示した「自殺」の項目である。
「自殺」とは恐らく、玉砕もしくは集団自決を指さしてゐるのであらう。『鉄の暴風』執筆者はこれを「美すべからず」として、須らく自己検閲の対象としたのである。
だが、集団自決が生起したこと自体は、厳然たる事実であり、沖縄戦記でこれを書かないといふ訳にはいかない。
それなら、どういふ態度で書けばいいのか。どう書けば、米軍の許可は下りるのか。
ここに至つて「米軍を意識してペンの動きはにぶく」なつたかどうか、筆者は預かり知らないが、「日本兵を敵」と見做すことが既に「習ひ性」となってゐたこの沖縄タイムス記者にとつて、集団自決を日本軍の「命令」に仕立て上げることは、何の造作もないことだつたに違ひない。沖縄上陸以来、日本軍と沖縄県民の心理的離間を画策し、両者の対立を使嗾し続けた米軍の「心理作戦」の、それは論理必然的?帰結〝であつた、と言ふべきである。
かうして『鉄の暴風』は、沖縄県民にとつての「敵」を米軍から日本軍へと置き換へさせることに成功した記念碑的作品となつた。そして六十年後の今日も、軍命は「事実」とされ、沖縄県民の心を強力に呪縛し続けてゐるのである。