新樹会代表幹事
末次一郎
■二十世紀はどんな時代だったか
本日は、二十一世紀の世界の展望と我が国が果すべき役割、また沖縄の将来という、大変大きなテーマをいただきました。専門家ではありませんが、私が平素考えていることを申し上げてみたいと思います。
さて、二十一世紀といいましても、この二十世紀の延長線上にあるものでありまして、そこから全く新しい頁が始まるのではありません。したがって二十一世紀を展望するためには、この二十世紀はどういう世紀であったかということを振り返ってみる必要があろうと思います。
今世紀は三つの時代に分けて考えることが出来ると思います。最初の四十五年、それは荒っぽく言えば、革命と戦争の時代でありました。多くの物が懐されて、八千万とも一億ともいわれる人々が尊い生命を失いました。紀元一世紀から十九世紀までには様々な戦いがありましたが、その間に殺された人よりも、この四十五年間に殺された人の数が多いということが専門家たちの記録の中に出ております。
次の四十五年は、打って変わって大変革の時代となりました。第一に国際関係に大きな二つの変化が表れました。
一つは連合国として手を繋いで第二次世界大戦を戦ったアメリカとソ連が正面から激突して、それぞれ軍拡を競いながら大きく対立しました。そしてこの二国のみならず、周辺国を誘って、世界が二分されて、東西が対決するという時代を作り上げました。
もう一つの変化は、日本がアジアで狼煙をあげたことがきっかけとなって、長年ヨーロッパ諸国の植民地として喘いできた国々が独立したことです。平成六年、村山富市首相がアジアを歴訪し、例によって謝罪の旅をなさいましたが、その時、マレーシアのマハティール首相からこう言われております。
「戦争中は確かにいろんなことがあった。ひどいこともあった。しかし、それは戦争の持つ業であって、とやかく言うべき事柄ではない。我々マレーシアの立場から言えば、緒戦において日本が赫々たる戦果をあげたことによって、我々だって立ち上がれば白人を倒すことができるという勇気を得、それが独立の原点になった。だから日本人はいつまでも頭を下げるべきではない」。
我々はこれで思い上がってはいけませんが、世界の植民地が独立したきっかけは、日本の先達のアジア解放の祈りと戦いにあった。これは自信を持って言えることだと思うのであります。
昭和二十年六月に誕生した国際連合に最初に加盟した国は五十一力国です。現在、国連に加盟している国は百八十五力国です。この十月にはトンガを始め、三つの国が新たに加盟しますから、百八十八力国になります。四倍近い国々が独立して、世界の国家構造を大きく変えました。
更にこの時期には科学技術が革命的に進歩しました。交通が発達して、プロペラ機がジェット機に変わって、世界は非常に狭いものになりました。また、通信が革命的に発達して、とりわけ衛星が開発されたことによって、世界の通信体系は全く変わってしまいました。
私が戦後最初にアメリカを訪れたのは、昭和二十七年でありましたが、プロペラ機でウェーキ島とホノルルに寄って油を入れないと飛べなかった。三十時間ほどかかりました。今はジェット機でノン・ストップでワシントンまで七時間余りで飛ぶ。
この科学技術の進歩は同時に新しい産業を作りました。例えば石油から洋服の生地を作るなどということは、昔は誰も考えなかった。その結果、世界の産業構造は大きな規模に拡大すると同時に、進んだ交通・通信を利用して国境を越えて人や物や金や情報が自由に行き来する時代になりました。そのお蔭で我々は今、かつて経験したことのない豊かで便利な生活をしているわけであります。
最後の十年は、二十世紀を総括しながら二十一世紀への模索を続けている時代、つまり今日であります。まず冷戦が終わりました。八九年十二月一日、ソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが、冷戦の終結を宣言しました。そして、これから世界に新しい平和への秩序が生まれると声高らかに謳ったわけです。
ところが、それから一年も経過しないうちに湾岸戦争が起こりました。これはサダム・フセインの政治的野心に基づくものであります。のみならず、アジアではカンボジアで紛争が起こる、アフリカでは部族紛争が各地で発生する。つまり冷たい戦争が終わってこれから世界は平和になるぞと思っていた矢先に、血なまぐさい事件が相次いで起こった。強大な二つの国が対峙していた、その構造の中で押さえ付けられていたもの、あるいは自ら抑制していたものが、たががはずれて一斉に吹き出してきたのであります。それは今なおボスニア、コソボにつながって続いております。アフリカの部族闘争も続いております。パキスタンとインドは血なまぐさい対決を続けようとしています。世界経済全体も、豊かな国と貧しい国との関係調整が未だにできずにのたうちまわっている。
つまり二十一世紀というのは、こういう二十世紀の重い荷物をひきずっていかざるをえない、そのように我々は理解すべきではないでしょうか。
■二十一世紀が抱える諸問題
世界の平和をどうやって実現するかという問題は二十一世紀の最大の課題だといえます。これまでは国連が中心になって、各地の紛争を抑えてきました。例えば湾岸戦争では、国連安保理の決議をもとにして、アメリカを中心とする連合軍がフセインを攻撃し、兎にも角にも鎮圧しました。
ところが先般のコソボの場合は、新しい様相が生まれて参りました。NATOはユーゴに空爆を開始する際、国連に諮ることをしませんでした。それは国連に諮っても、拒否権を持っている安保理常任理事国の中国とロシアが賛成するはずがないと考えたからです。
そもそもNATOは、NATOの領域内に起こった問題を始末するために出来た同盟です。ところが今度のユーゴスラビアは、NATOの領域内ではございません。それに対するNATOの論理は、「領域外ではあるが、バルカンを放っておいたらこの流れはヨーロツに波及する。従って今抑えるべきだ」というものであります。
この新しい論理であれだけの膨大な空爆を敢行したわけです。最後の段階では、ロシアの元首相やフィンランド大統領などが調停に出ましたが、最終的にはG8首脳国が調停の役割をいたしました。
中国は大国を自認していますが、G8には入っていない。従って今度のコソボ問題については、アメリカの爆撃機によって大使館がやられたからというだけではなく、複雑な目で見守っております。
今度のコソボが示したこのような構造は、果してこれから国連を中心にして世界の平和が維持できるのかどうかという問題を提起していると申し上げてもいいわけです。
このような情勢の中で、地域連合の果す役割が重要視されてきております。ヨーロッパは大きなヨーロッパ連合(EU)を作っている。それから、今は経済に力点が置かれていますが、カナダとアメリカ、メキシコはNAFTAという条約を結んでいる。これはやがて単なる経済関係を越えた一種の同盟関係に発展する方向を求めております。
アフリカにはアフリカ統一機構というのがございまして、完全に掌握しきってはおりませんが、お互いに手を繋いでやっていこうという動きがございます。
アジアでもASEANが二十余年にわたって実績を積み上げてまいりました。まだ赤ん坊のようなものですが、アジア地域フォーラム(ARF)もあります。つまり、全てを国連に依存するのではなくて、地域が手を取り合って平和を追求していこうという営みが一方で行われているわけです
しかし他方では、インド、パキスタンの対立に見られますように、宗教的な対立というものは我々には到底理解し難い根深さを持っております。ユーゴの収拾がこれから始まりますが、これもまた民族対立という厳しい様相が加わっておりますから、簡単にいくものではありません。アフリカの民族対立も深刻なものです。
次に南北問題を考えますと、豊かな国はどんどん豊かになっていくのに対して、資源を持だない南の国は、独立はしたものの一本だちがなかなか出来にくく大変な苦しみを味わっております。我が国は世界一のODAを施行しながら、この貧しい国々を助けてまいりました。
また私どもは青年海外協力隊を創設して、今年(平成11年)で三十四年になりますが、世界の全ての地域約六十力国に現在この瞬間でも二千五、六百名を派遣しております。発足以来一万九千人を越しました。その他多くの専門家が、その国の発展のために努力をしているわけです。
しかし、世界全体という視野で考えますと、どの辺に調和点を置くのかというのは非常に大きな問題であります。といいますのは、例えば中国は数年前までは石油の輸出国でした。私が十年前に北京に行って天安門の前に立った時には、数台のトラック、バスが走っていて、後は数え切れないほどの自転車が群がっていました。ところが最近の天安門前に行きますと、乗用車やタクシーがパンパン走っている。その結果、油が足りなくなりまして、今や中国は石油の輸入国になってしまいました。
今の開発途上国がアメリカや日本と同じような生活をもし求めるとするならば、有限の資源しかないこの地球上でやっていけるのかという問題があります。世界全体が幸せになっていくためには、今のままではやっていけないという大きな課題が提示されているのであります。
更には人口問題があります。今世紀の初めの世界の人口は、大体十六億前後と言われています。国連の統計によれば今年の十月十二日に世界人口は六十億に達すると伝えられています。四倍になったわけです。このままいけば二〇五〇年には百億になる。これは容易なことではありません。
中国は一人っ子政策をとっています。二人のカップルが一人しか生まないならば人口は減るはずなんです。ところが未だに増え続けているのでありまして、この人口問題をどうするかということは、これまた大きな課題であります。限られた地球の資源と食糧で生きていけるのかという問題です。
更に科学技術が進歩するにつれて、乱開発が進んだりして、環境上からの問題が数多く指摘されています。地球の温暖化であるとか、酸性雨の問題だとか、単にその地域のみならず、全域に大きな影響を与える環境問題が大きく浮かび上がってきております。地球全体が安寧を保って幸せにやっていくためには、この環境問題も無視するわけにはまいりません。
さらに我が日本を代表して緒方貞子先生が汗を流し続けておられる難民問題があります。コソボの場合は、セルビア人に追い出された難民約八十万のうちの七十万近くが戻ってまいりました。二割ほどいましたセルビア人が今追い出されつつあります。アフリカをはじめとする世界の難民は、少なく見ても二千五百万、あるいは三千五百万に達するかもしれないと言われております。こういう問題をほうっておけるのか。
こうして考えてみますと、二十一世紀というのは一方で明るい側面をもっている反面、今申し上げたような数多くの問題を二十世紀から引きずっていく。人類はこれをいかにして乗り越えるかという大きな問いかけがなされている世紀であろう。とりわけ最初の四半世紀に非常に重要な時期を迎える、こう私は考えております。
そこで求められるのは、宗教が違っても、あるいはまた人種・民族が違っても、共に手を携えて生きていけるという新しい物の考え方、そういう哲学、文明観であります。そういうものが生まれてこないと、このままいったら到底収集がつかないことになるのではないだろうか。人間の生存の根幹にわたる問題に神は問いかけを発してきている。二十一世紀というものを、そんなふうにとらえながら、その中で日本の果すべき役割を考えていかなければならないと思うのであります。
■日本は大国であると自覚せよ
いま、日本は、バブルのつけがまわってきて、金融、経済が大混乱をしております。やむを得ませんから政府は、財政再建の方針をひとまず凍結して、赤字国債を乱発しながら公的資金をつぎ込んでなんとか危局を乗り越えようとしております。
国および地方の借金が約六百兆円といわれております。このような状態でありますから、世界のことなどに日本が貢献する暇などない、今の日本にそんな力はないというようなことを言う人もおりますが、私は断じてそうではないと思います。日本はあらゆる努力をして、能う限り世界への役割を果さなければならないと思います。
その第一の理由は、日本の戦後の復興も世界からの援助があって初めて成り立ったものであるからです。戦争が終わった時に日本全土は丸裸でした。長い長い戦争で三百十万人の命を失いました。二千九十万戸の家が焼かれました。さらに、満州をはじめ、朝鮮、台湾などから続々引き揚げてきた人々が、あわせて六百三十万人ぐらいになります。住む家もなく着る物もなく、食べる物もない、まったくのゼロから戦後は出発したわけです。
それなのに、大きな餓死者を出さずにすんだのは、占領軍が占領地支援の施策を思い切ってやってくれたこともあります。アメリカや世界の有志の方々が、ララ物資とか、ケア物資などをどんどん送ってくださったおかげで、赤ん坊は飢えをしのぐことができた。さらに言えば、東京オリンピックを開催するために新幹線をつくり、高速道路をつくりましたが、これは世界銀行などの援助があって初めて出来たわけであります。
そういうふうに考えますと、日本の戦後の復興と繁栄は、そうした多くの援助支援があったからであって、自力だけでやったと思い上がることは許されません。今、世界がのたうちまわっているなら、今度は我々がこれに応えなければならないと思うのであります。
第二に、たしかに当面の不景気とか失業率とか暗い話題がいっぱいあります。しかし、よくよく注意深く評論家の説などを聞いていますと、何か無意識のうちにバプル時代を連想して、そこに物差しをあてて、「今はひどい」という非難攻撃をする類が多すぎる。バブルが異常だったのでありまして、今の状態が尋常と考えるべきであります。
我が国は備蓄外貨を二千二百億ドル持っております。世界一の備蓄外貨であります。在外投資も抜きん出て世界一であります。貿易は黒字続きであります。個人の貯蓄は千二百兆円もあると言われております。
国連は国連の分担金を算出するのに、その国のGNPの実勢に応じて比率をはじきだします。来年から我が国は国連の基礎的分担金の比率が二〇%にあがります。アメリカが二五%で日本が第二位です。ヨーロッパ諸国をあわせたよりも日本の分担金が多い。アメリカは二五%ですが支払いを滞らせておりますから、今のところ日本が世界一国連を支えている国であります。
国連は国運を基礎的に維持する分担金の他に、やれ湾岸戦争が起こった、やれボスニアに争いが起こったという時に、臨時の金を集めます。アメリカは偉そうなことを言いながら、なかなかこれに応じようと致しません。日本はやはりこれも努力をして応じてきております。
従って我々が「日本は駄目なんだ」といくら言ったって、世界の人は耳を貸しません。日本は大国なんだ、世界のために役割を果すべきだ、と要求し期待するのであります。我々はそれに応えなければなりません。
第三に私はそれは出来ると思うんです。敗戦後、あの裸の中から立ち上がったのであります。考えてみますと、日本の面積約三十八万平方キロというのは、世界の陸地面積の三百六十分の一です。しかも約七割は山です。資源もなんにもありません。そこに世界人口の約四十七分の一が住んでいます。あらゆる知恵をしぼって、住みやすい環境を整えてきた我々先輩方のおかげであります。
また明治以来、義務教育が徹底普及して、日本人には読み書きが出来ない人はいません。そして、春夏秋冬の四季の変化の中で、いつの間にか培われてきた農耕民族の勤勉さというのが身についている。それら我々の先人がっくりあげてきた土台の上に、敗戦後の復興は成り立つ。たのでありまして、それだけのバイタリティーを日本民族は持っております。アメリカに追いつけ、追い越せと頑張ってきて、追い越した途端に目標がなくなって、今日のようなのたうちまわりをしておりますが、目を覚ませばそれだけの活力をもっている国であります。私はそういう意味で、世界のために役割を果すという視野を、もう一度我々は見直すべきであろうと思います。
■日本が世界に果すべき役割
それでは日本が出来る役割というのは具体的にどういうことであろうかと考えますと、当面的に言えば、途上国支援に果している日本の役割は、たとえ我が国の経済がいかに苦しくとも、やめるわけにはいかない大きな課題だと思います。
ただ、支援の仕方には問題も多い。箱ものをどんどん作って結果的にお役にたっていないというようなものもたくさんあります。また、軍拡を続けている中国に、果してあれだけの援助をしなければならないのだろうか疑問であります。それらを根本から見直しながら、本当に呻吟している遅れた地域の人々が自力で立ち上がれるように、本来の東洋的感覚に立った日本の援助支援のあり方をしっかり考えていかなければならない。
二番目は環境問題であります。これはいち早く、世界も日本に期待し、竹下内閣の頃リオデジャネイロで大きな環境会議を日本の主導で行いました。以来、京都会議をはじめ、環境問題については、これまでのところ、日本はある意味で世界のリーダーシップをとりながら対応してきております。これから問題はさらに複雑化し輻輳して参りますから、専門家の動員をしながら、これについても大きな役割を果していかなければならないと思います。
三番目は難民対策でありますけれども、我が国は難民対策については、ほとんど見るべき実績を持っておりません。アフリカの難民を日本まで引っ張ってくるというわけにはいかないけれども、今後の情勢の展開で、もしも朝鮮半島に何かが起こったとしたら、あふれ出る難民がこの列島に押し寄せてくることは、間違いありません。従いまして、これもまた対岸の火事として考えるのではなくて、真面目に対応のことを考えていくべきだと思います。
そして大事なことは、先程から申し上げております、平和を確立するために日本が果してどれだけの寄与、協力ができるか、ということを真剣に考えねばなりません。
トルコの地震が起こりまして、一日遅れで約五十名の救援隊が出発しました。これは今まででいうと最速です。これまでは二日、三日経ってからやおら立ちあがっておりました。少しずつ、そういう体制が整いつつあります。もっと素早く、しかも人間だけが飛んでいくのではなくて、例えば現地で行動するためには、ヘリコプターも飛行機もいります。そういうことを含めた万全の対応を考えていくべきであります。
最近、外務省と国会の一部に、これだけ日本は国連に寄与しているのに、国連は日本を安保理事会の常任理事国にしてくれない。それならば、分担金を年に一割ずつ収めるのを減らして、早く入れろというデモンストレーションをしてはどうかという議論が出てきております。いかにも評論家らしい、日本的な議論だと私は思います。安保理事会に入らなければ平和への貢献が出来ない、というのはおかしいのです。
確かに日本のように貢献している国が、安保理事会に常任理事国として入れないというのはおかしな話です。世界でも、常任理事国に日本とドイツが入ることについてはほとんど異論がありません。しかし、日本とドイツだけでは困る、やはり開発途上国の代表も入れろ、世界の五大地域の代表も入れろ、という議論になるわけです。
そうすると、例えばアフリカではどの国を入れるのか。一番大きな国はナイジェリアであります。そうすると、最も古い文化と歴史を持つのは俺だといってエジプトが手をあげる。南米ではブラジルだという声が出ますと、お隣のアルゼンチンが納得しない。そういうことで調整がつかないために、日本は未だに安保理の常任理事国引入れません。
したがって我が国としては、国連の常任理事国にならないと何もできないというのではなくて、世界に向かって発言できるような別の体系をつくって平和に向かっての寄与をしなければならない。
アジアでは、アセアンの拡大会議には参加しております。しかし、さらに一歩進めてアジア地域フォーラムという組織も育てていく役割も担うべきであります。このフォーラムはまだ赤ん坊です。ヨーロッパ諸国のように、ほとんど文化水準、経済水準が同じという国ではなくて、アジア地域フォーラムの中には十九の加盟国がありますが、宗教も違う、人種も違う、言葉も違う、国や地域のレベルもまったく違う、したがってなかなか話がかみあわない。しかし、それでも熱心に努力をして、このアジア地域に何かことがおこった時には、この体系が役割を果たせるようにこれを育てていくという努力も必要であります。
つまり、すべてを国連に依存するのではなくて、地域の問題は地域である程度処理解決できるという機能を備えていくということであります。同時に、国運の改革について、思い切った改革提言をしていかねばなりません。
■生きざまを根底から見直す時
そのように、日本の果すべき役割というものを想定して、そのために我が国はどうあるべきかということを今日ほど真剣に考えねばならない時はない。それが今世紀を総括しながら、二十一世紀に向けてどう進んでいくかという模索をしている日本の課題であろうと、こう思うのであります。
では、それには何が必要か。私はまず、政治がそういう姿勢に成長しなければいけない、これが第一の課題であろうと思います。いつも党利党略に明け暮れて、眼中に世界なしということでは困る。二十一世紀の世界のために、日本はどんな役割をするかということをきちんと考える政治に成長していかなければなりません。
国会に憲法調査会が作られることになりました。これは数年前までは考えられなかった前進であります。しかし問題は、しっかりした会長を置いて、本当に正しい意欲と見識を持つ委員が真面目に国のあるべきかたちを論議しないとすると、絵に描いた牡丹餅になるわけです。第九条だけをいじって、いきりたって観念的な議論をするとか、そういうことではなくて、憲法というのは国の基本法であります。この国をどうするのか、という形をつくろうとする営みであります。従いまして、調査会が出来た、というだけでよしとはできない。この流れをどうして本物に育てていくか、というのが私たちに与えられている大きな課題だと思います。
二番目には、経済を蘇生させなければなりません。先程から申し上げますように、世界のために役割を果すためには、一定の経済力は必要であります。専門家の間にはいろいろ議論がありますけれども、私は次第に新しい底力が生まれ出つつある、まだまだ活路は十分あると思います。かつて戦争が終わった時には、目ぼしい指導者がみんなパージになった。その結果、夢にも思わなかった要職についた若い連中が、ありったけの知恵をしぼって戦後の日本経済再建に挑みました。ちょうど今、そういう時期にあるわけでありまして、お互いに心根を変えながら取り組んでいけば、必ず活力を取り戻すことが出来ると思います。
第三番目に、そういう方向を軌道に乗せていくために根本的に大事なことは、国民が誇りと自信を取り戻すことだと思います。残念なことに、東京裁判以降、日本だけが悪者にされてしまう歴史観がはびこった。その影響が今なお根強く生き続けています。他方、マルクス史観も入って参りまして、それは教員組合の間に根強く受け継がれて、教育の荒廃を作り出しております。未だに自虐的な、日本自身を貶すことによって快感を感ずる人種が蔓延っています。
世界はヨーロッパ連合のように大きな固まりで動く反面、やはり二十一世紀も国というのが何としても基礎単位となって世界が動いていきます。だとするなら、国に対して、誇りと自信を持つ人々がその国をしっかりと支えるという形が生まれなければ、この国は決してよくならない。そのためには、我々は、戦後五十数年、怠ってきたことにもう一度、視点を移して考えねばならないと思います。
なぜ、現在の日本の危機が招来されたのか。私の考えでは、節目節目で立ち止まって、歩んできたところを総括し、今後の進むべき道を定める、そういう基本的な作業を怠ってきたからだと思うんです。
戦争に負けた時に、「なぜ負けたんだろう」「なぜこの戦争は始まったんだろう」と総括しなければならなかった。東京裁判ではすべて日本の侵略のため、と決めっけましたが、そうではありません。米英と戦ったのは、彼らが日本を圧殺するためにあらゆる経済封鎖など手段を選ばなかったからであります。
中国が戦場になったのは、中国がアメリカに与して、日本に敵対しようとしたからであります。日本は中国で戦いました。しかし中国を乗っ取ろうと考えたことはありません。アジアの他の地域では、戦場になりましたから色々問題はあった。しかしながら、アジアの解放のために大きな役割をした。我々は正確にその辺の歴史分析をして、省みるところは素直に省みながら、しかし背筋を伸ばすところはきちんと背筋を伸ばすべきだったと思うんです。
占領が昭和二十七年の四月に終わりました。ここで、占領によって得たものは何だったろうか、失ったものは何であったろうかということを、しっかり総括すべきであったと思います。
我々は占領を通じて得たものもたくさんあったと思います。たとえば、財閥解体とか農地解放というのは、占領軍なくしては到底できなかったことであります。また民主主義という考え方の中には、数々の行き過ぎはありますけれども、しかしその中には学ぶべきものがあったことは否定できません。しかし、反面、失ったものも極めて多い。それは民族の誇りを失ったわけです。
我々はそうした節目節目をもう一度振り返って、姿勢を正し直す、そういうことがなくては、政治の姿勢を正し、経済を健全な姿にもっていく力は生まれてこない。さらにそのためには、一人一人がここでしっかりと地に足をつけて、その生きざまを見直してみるべきではないだろうか。
不平不満を述べているけれども、実際は満ち足りた生活にどっぶりつかっているというところはないか。何かがあるとすぐ行政や政治にもちこんで問題を解決しようとするが、そうではなくて、自分でできることは自分でやる、家族でできることは家族でやる、地域でやれることはみんなで手をつないで地域でやる。そういう活力が新しく生まれ育ってこないと、この国のかたちを作る原動力にはならないと思うのであります。
私どもの新樹会という団体では、途上国の貧しい人のことを思って、月にいっぺんでいいから昼飯を抜いて、その分をカンパしようという運動を致しまして、もう数千万円集まりました。そのお金で色んな支援をしているわけです。そういうふうに、ちょっと心構えを変えていくことによって、ずいぶん変わってくると思います。
ロンドンと東京の一人当たりのゴミの量が、東京はロンドンの五倍であります。それは、作る側にも問題があるわけで、そうしなくてもいいものを発泡スチロールの箱に入れたり、ゴミがいっぱい出るように作る。もらう方もスーパーに物を買いに行く時に袋を持っていけば、ビニールを山ほど貰わなくてもすむのに、そういうことをしようとしない。みみっちいことを申し上げているようですけれども、そういう一人一人の心構えを変えるだけで、世の中の空気は変わっていくと思うのであります。
我々はそういう生きざまを根底から見直すべき時期ではないだろうか。物、金を追いかけているうちに失った心を取り戻すべき時期ではないだろうか。そういうことを大人がしっかりやれば、教育はよくなります。今の教育の歪みはすべて大人の責任であります。
世の中が変わった、テレビ時代になった、パソコン時代になった、そういう変化をわきまえながら、子供を指導することを怠った親たちの責任でもあります。学校が荒れていると言われますが、校長のしっかりした学校はほとんど荒れていません。先生方が一致団結して手をつないでいるところでは荒れていません。そういうことを考えますと、大人の責任でありまして、大人が姿勢を正して、一人一人が生きざまを見直して姿勢を改めることによって、私は必ずよくなるという確信をもっております。
■沖縄サミットの可能性
時間がだいぶん経ちましたが、最後に沖縄のことについて触れます。
大東亜戦争において、アメリカは沖縄を一ヵ月で落とすという計画でした。どころが県民の皆さんが頑張ってくださったお蔭で、三ヵ月近く待った。そのお蔭で米軍の本土上陸を免れたわけです。生き残りの復員兵の一人として、これを黙って見過ごすことは出来ない、と考えたのが、私の沖縄問題に取り組んだ原点であります。
戦後も沖縄は長い占領を体験し、復帰後も巨大な基地を抱えて苦しんできました。そういう沖縄の異常な歴史を考えると、戦後処理を目的として青年運動を起こした私としては、この沖縄の問題はほうっておけないと考えました。
私はそういう経過を辿って、民間の立場からでありましたけれども、沖縄復帰についてのさまざまな努力を致しました。ワシントンで情報収集をしたあとには、必ず沖縄を訪れて、当時の為政者は勿論、共産党の指導者にまで会って、「今、こういう状態であるから、これからはここのボタンを押していきましょう」というようなご報告を致しました。
そういう動きをしてきた私から考えますと、たしかに巨大な基地を抱えて、沖縄の皆さんがご苦労なさっていることは事実でありまして、これからも縮小の努力は続けていくべきであります。しかし、ただ解放せよ、返せ、というだけではなくて、後の使い方をきちんと考えることも大切であります。ここにこういうものを作りたいから返してくれという手順が十分行われないまま来たために、返還後、未だに手付かずのところがいっぱいある。こういうことも反省しなければいけないと思うのです。
そして、本土で日本の悪口を言って楽しんでいる連中がいると申しましたが、沖縄にもたくさんおられます。しかも、実体験ではなくて、色んなものを作り上げて、ほざいて楽しんでいる人がおられます。そういうことからは新しいものは生まれてこないと思うのです。
言うべきことはきちんと言いながら、そのかわり沖縄としてやるべきことはきちんとやっていく。昔の物語にどっぶりつかって夢を追いかけるのはやめて、現実をしっかり受け止めてその中から立ち上がっていく。そういう新しい風潮が、沖縄にも芽生えつつあると私は思うのです。その空気、風潮をみんなで手をつなぎながら、おしあげていくべきです。
ややもすれば、なんでも永田町に持ち込めばいいと思ってはいないか。あるいは知らず知らずのうちに基地経済にどっぶりつかっていることはないか。そういうことも、やはりここでもう一度見直して、これからの沖縄のあり方を考えていかなければなりません。
その絶好のチャンスとして、来年沖縄サミットが開かれることが決まりました。これは小渕首相の英断であることは、皆さんご存知の通りであります。おそらく世界のマスメディアはもうしばらくたったら、来年のサミットが行われる沖縄について様々な取材をするでありましょう。そんな時、県民の皆さんが、サミットに向けて、それぞれの立場で燃えているという場合と、冷めて見物している場合とでは、沖縄に関する報道も全く変わって参ります。
サミットは政府の仕事ではありますけれども、沖縄が新しい道を求めて踏み出していく、大切なきっかけにもなると思うのであります。サミットから何が得られるかと望んでばかりいるのではなく、新しい道を開くためにそれぞれの立場で何が出来るかということを考えながら踏み込んでいく、そういう空気が生まれてきたら、沖縄の将来に明るい前途が開けてくると私は期待しております。
サミットをきっかけとして、アジアにおける沖縄、アジアに対する情報発信基地としての沖縄、あるいはアジア文化の要としての沖縄、そういう新しい沖縄の芽が、大きく育っていく可能性はいっぱいある。それにチャレンジしていくかいかないかは、沖縄県民の皆様が決めることである。そういう意味では、極めて大事な時を迎えていると考えております。
限られた時間で、しかも大きなテーマでありましたから、少しずつ食いかじるような私の意見を申し上げることに止まりましたけれども、私がご報告申し上げたことで、何か皆様にも新しく考えていただくきっかけをつかんでいただいたとすれば、望外の幸せであります。