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明治憲法と皇室典範ー正しい憲法のあり方(月刊誌「祖国と青年」平成18年4月号 )

祖国と青年論説・オピニオン

東京大学名誉教授
小堀桂一郎

■大日本帝国憲法と皇室典範

大日本帝国憲法が制定・公布されたのは、明治二十二年二月十一日でありました。現在の「建国記念の日」、私ども戦前生まれの世代が「紀元節」の名で親しんでおりました祝日が明治六年に制定されてから十六年めのその日のことであります。同時に、このことは、あまり世間に記憶されていないのですが、このとき皇室典範の制定も同じ日付でなされております。帝国憲法発布の勅語、上諭、皇室典範制定の勅語、いずれも同じ二月十一日付であります。そして、少し注意を引かれますのは、天皇の御告文に「茲二皇室典範及憲法ヲ制定ス」と、皇室典範が主であるかのような表現になっていることであります。

現代人たる我々は、とかくこの日に制定・公布された帝国憲法への記憶を明確に保っているのに対して、皇室典範への関心はどうも薄いようです。しかし、それには尤もな理由があります。帝国憲法の発布は、その当時に於いても大きな話題になりました。これを以て、明治の日本は立憲君主制という政体が備わり、国際社会に於いて欧米列強と同列に並ぶことのできる法治国家としての実態を得たという自信を待った。これに対して、皇室典範は皇室御自身の家法であります。その内容は人民が与かり知らぬところと見てよいものだった。現に、皇室典範は憲法と違って、官報を以て広く公布するという手続きがなされませんでした。後に明治四十年になって典範も公布されることになりましたが、元来は、それは人民が知っている必要のない、雲の上の世界のことを文章化したものだったのであります。

ところが、我々草莽の民が自分たちの与かり知る必要のないものと思い込んでいた皇室典範が、最近、俄にジャーナリズムの話題として浮上し、否応なく国民大衆が関心を寄せざるを得ない問題となってしまいました。それは言うまでもなく、平成十六年の年末に内閣総理大臣がその私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」と称する懇談会を組織し、十人のメンバーを招集して現行皇室典範の改定についての審議を委託したという事態であります。そしてこの会議は、平成十七年の内に十一ヵ月計十七回の会議を開いたそうですが、十一月二十四日付で、我が国の二千年あまり百二十五代に亙って継承されてきた皇位継承の原則に根本的な変更を加える趣きの報告書を総理に提出したのであります。そして、内閣はこの報告書に基づき、「皇室典範改正準備室」を設置して典範改定の法案作成の作業に入り、現に作業が進行中であると伝えられております。

今さら言うまでもないことと思いますが、昭和二十七年四月二十八日付で、日本とかつて激しい戦いを交えた連合国との間に結ばれた平和条約がその効力を発生いたします。その結果、我が日本は日米戦争の停戦後六年八ヵ月に亙った米軍による被占領状態から解放され、独立の国家主権を完全に回復したのであります。そのときから数えて本年で五十四年、既に半世紀以上の年月が経過しております。

この半世紀以上の長い年月の間に、占領政策による歪曲を受けた我が国政の再建のため、是非しておかなければならない事業がいくつかありました。占領軍の起草・強制による「日本国憲法」の廃棄と「帝国憲法」の部分的修正を含めた復活、「教育基本法」の廃棄と「教育勅語」のそのままの復活、そして皇室制度の再生であります。この前記二つの項目については、例えば数年前から民間憲法臨調、民間教育臨調といった民間人有志によって、とにかく辛抱強く目標に向かっての努力が進められております。しかし、我々がとかく注意を怠りがちであったもう一つの重大な問題、つまり皇室伝統の護持のための運動にも我々は一昨年末以来の事態をふまえて、国民を挙げて挺身すべきであります。その思いを新たにすべき好き機会が、今日という記念日の意義だと思うのであります。 何故ならば、異国の軍隊の占領、そして彼等の占領政策の根本方針であった日本国弱体化工作の具体化として、我が国は皇室の藩屏としての皇族制度を要するに破壊されてしまったのです。そして、これが原因となって、私どもは今、皇位継承の危機が将来に押し迫ってくるであろうという憂慮に悩まされているのです。そうした破壊を蒙る以前の日本の皇族制度を支える憲章となっていたのが明治の皇室典範であります。そして、先に申しましたように、その皇室典範の制定された日も、やはり本日二月十一目なのであります。

今日のこの記念日に際して、明治二十二年に制定された大日本帝国憲法と皇室典範とは我々国民にとって何であったのか、そして二つの法典が日本人の公的生活から失われたことは何を意味するのか、そのことを改めて考えてみたいと思うのであります。

■明治憲法はドイツ法体系の輸入か

憲法とは、そもそも何でありましょうか。憲法という言葉自体は、古くから国語の語彙の中にありました。御存知の通り、聖徳太子が御自ら十七条の憲法をおつくりになりました。それは漢文体で書かれていましたが、国語としては「いつくしきのり」と読ませられたように、憲法は「尊厳な法律」という意味です。これは聖徳太子の国民教育上の御著作と見なしてよいものと思いますが、皇室と臣民との秩序のあり方を説かれ、公民道徳という教えの面を持つと同時に、仏法の教えを根底に置いた、一般的な意味での道徳律のような面も持っておりました。その点では、教育勅語に通う一面を持っていたわけです。また、至って具体的な官吏の服務規定とも言うべき性格も持っておりました。ということは、現代の私どもが理解しているような、いわゆる国体の在り様とその機能とを成文化した国家基本法という脈絡とはちょっと違っていたのであります。

国の在り様と機能とを成文化したのが憲法であると一応定義してみますと、このとき思い当たるのが英語の「constitution」という単語です。現代広く重用されていると思われる小学館の『ランダムハウス大英和辞典』でこの語を引きますと、「物質の構造」「人間の体格」「素質」といったよく使われる代表的な訳語に次いで、「憲法」という訳と、「国体」という訳語が載っているのであります。つまり、「憲法」と「国体」は英語では同じ概念だということになります。この二つは、英語で表現すると、ともにconstitutionでよいわけです。

このような国家のあるべき姿としての国体と、その機能を条文化した実定法としての憲法と、この二つのものの密接不離の関係を念頭に置いて、現行「日本国憲法」の内容とその在り方を考えるとき、我々は深く驚き、重苦しく考えこんでしまうのであります。何故なら、現在の憲法と日本の国体との間には、この憲法の誕生の経過から言っても、その法文としての意味するところから見ても、密接不離どころか、凡そ何の関連も認められないからであります。「大日本帝国憲法」が、我が国本の国体の実相を反映し、国体の在り様を成文化した条章であるが故に憲法と称することができるという事実とは、まるで逆の話になってしまうのです。

そこで、まず「大日本帝国憲法」が日本の国体の如実なる反映であるのは何故か、その所以を少々考えてみます。それには、この憲法の成立過程を少し振り返って勉強してみればよいのですが、幸いに最近では読みやすくて買いやすい参考文献がいくつも出ております。

例えば、私が推奨しますのは、若い憲法学者の八木秀次さんの『明治憲法の思想』及び『日本国憲法とは何か』であります。いずれもPHP新書ですが、新書判と申しましても甚だ充実した内容ですから、詳しい御紹介は到底無理であります。ここでは本日の記念日に直接関わるところに限って少し触れることにします。

「大日本帝国憲法」(以下、明治憲法)制定の中心人物であったと見られる伊藤博文は、明治十五年に憲法制定の下準備のためにヨーロッパヘ視察旅行に行きます。そして、プロイセンのベルリンでルードルフーフォンーグナイスト、オーストリアのウィーンでローレンツーフォンーシュタインという二人の憲法学者に会い、その教えを受けるのであります。そして翌十六年に帰朝し、やがて井上毅、金子堅太郎、伊藤巳代治といったブレインを糾合して憲法制定の参与になります。この辺りまではよく知られていることだろうと思います。

この、伊藤博文が憲法制定のためにベルリン、ウィーンを歴訪したという事蹟から、明治憲法はプロイセンやオーストリアの法思想の影響の下に成立した、言ってみれば奈良朝の昔に唐から入れた律令と同様、先進文明国から移入した法体系なのではないかという漠然とした理解があるように思われます。

しかし、この思い込みを八木秀次さんの研究は明快に否定しております。確かに、伊藤博文も最初はヨーロッパの新興統一帝国であるプロイセンに我が国の憲法の範を求めることが可能ではないかという期待を抱いておりました。ところが、現地に到着し、伊藤が接した碩学-殊にウィーンのシュタインですがーはさすがに優れた学者で、極東の帝国日本にドイツ流の法体系を輸入せしめて一種の影響力を与えようというような邪心を抱く人ではなかったのです。グナイスト、シュタインらは自らが奉ずる歴史法学の理念に忠実に、また学者としての良心の命ずるところに従って、伊藤に向かって「一国の歴史の研究こそが憲法の基礎にならなければならない。外国の法体系を真似しても結局は身につかない」という見解を説き聞かせ、伊藤は深くそれに納得し、憲法の構想についてはある成算を抱いて欧州での調査の旅を終えて帰国するのであります。

■関東御成敗式目の先例

伊藤が心中会得して帰ってきたその歴史法学の原理は、幸にして明治憲法起草の主役の一人、井上毅の方針と一致しておりました。

井上も、元来は憲法というものは欧米諸国の法を模範としてつくるべきもので、それによって明治日本は欧米主導の国際政治環境に適応できるという考えから出発した人でした。ところが、彼は留学ではなく国内で研究をしていて、一国の法体系及び政治制度の枠組は古来の習俗、慣例、歴史への考察から帰納的に導き出すべきものであるという結論に達したのであります。それは、周囲にいた国学者や国文学者との親交から悟ったもののようであります。小中村清矩、落合直文といった人たちが井上に参照するようにと教えたのが、記紀万葉から近くは水戸学派の史論に至るまでの各種の国学の古典文献であったのであります。

井上が参考を薦められた古典文献の中に、八木さんの著書による限りでは北条泰時編の「関東御成敗式目(貞永式目)」が見えていないのですが、しかしこの式目は江戸時代には寺子屋の教科書に用いられるほどの民衆的な普及を見ていた文献ですから、その一般性の故に却って敢えて取り上げていないということも考えられます。式目の成立事情については十分な認識があったと推定できます。

伊藤はグナイストやシュタインに教えられて、一国の法律というものは、いかに先進文明国と見なされる国のそれといえども、外国の法をそのまま自分の国に取り入れて自国の法とする、といった手続きでつくるものではない、自分の国の古典、慣例、習俗に基づいてそれを成文化し、制定するものだと悟ったわけですが、我が国には、そのような法思想を実際に適用して実定法として制定せしめた前例が立派にあったわけであります。それが「御成敗式目」という武家法であります。

歴史法学の見地から見て、御成敗式目は大宝律令、養老律令といった大陸の唐の国から輸入した法とは違っておりました。唐から輸入した律令と申しましても、そこには例えば神祇令という天神地祇への信仰を前提とする我が国固有の社会や習俗への適応が十分加味されておりましたが、とにかく、輸入した律令とは対照的な存在が鎌倉幕府の執権政治がうみ出した御成敗式目だったのです。この式目は我が国の武家社会での習俗、慣習を言葉を以て抽出することによって成立したものであります。

「御成敗式目」の後には「建武式目」の例があり、そして徳川幕府の「武家諸法度」とその度重ねての増・改定の作業がありました。こうした前例は一種の内的経験とでも申しましょうか、自分自身の実体験ではないのですが、先人たちの経験として自分の内部に投影されていく。それが歴史の経緯の中で蓄積を重ねて、無形の伝統になります。そういうわけで、井上毅はこの憲法起草事業の苦心を回想した後、「この憲法は決してヨーロッパ諸国の憲法を移してつくったものではない。我が国の遠つみおやの昔から積み重ねてきた慣習、不文の法とでも言うべきものを言葉に形式化したものである」と自信を持って書き記すことができたわけであります。  一つの社会の慣習は、その社会の成員相互間によく理解が行き渡り、同時にその成員がその不文の慣習に従うというマナーを持ってさえいれば、特にそれを法文化する必要はなく、社会の成員相互の暗黙の了解だけで社会は立派に運営されていくものであります。日本のように外部世界から転入してくる移住者の数が少なく、どの地域でもだいたい昔ながらの成員の均質性を保ち得ている社会では、特に不文の慣習の規制力は有効に働きます。それでも時の流れとともにこの慣例によく通じない人間が現れるでしょうし、外部からの移住者も時代が経てば数がふえましょう。あるいは社会の事情の変化と旧来の慣習との間に上手く噛み合わない部分が生じたりすることもある。そのときにはその変化の動向をよく見定めて、十分に定着したと思われる慣習を拾い上げて勘案し、そこから新たに法理と言うに値するような原理を抽出していけばよい。それを成文化すれば、人々が社会的行動の指針を仰ぐ手引きとして有効だろうと思います。

「関東御成敗式目」というのは、このようにして成立しました。ですから、武家社会の慣習法として、鎌倉時代の初期から徳川時代の終わりまで、有効な法理として人々の信頼に応えることができたのであります。我が国にはこのような立法とその施行についての国民的経験というものがあったのです。この国民的経験を踏まえて考えれば、明治憲法の起草に当たって、確かにそこには西洋列強の覇権の下に動いている国際社会との交際という新しい条件が付け加わったにせよ、国憲の基準をどこに置けばよいか、当時の人々に格別の迷いはなかったはずです。自分たちの歴史の先例に従えばよく、しかも憲法制定作業に十分な経験を積んだドイツ、オーストリアの歴史法学の碩学たちが「法の制定は歴史の基礎の上に立つべし」という法理論上の基準の正しさに太鼓判を押してくれたわけであります。

■一九四六年憲法の「断絶」

以上のことを踏まえて、次にそれとの比較的視点から現行の一九四六年憲法(江藤淳氏の命名)の制定過程を考えてみます。そうしますと、その違いのあまりの甚だしさに唖然とすると同時に、そもそも今の憲法に「日本国憲法」という名前を与えることが既に大変な誤りなのではないかという深刻な認識に捉えられるのであります。

現行憲法の制定過程につきましては、制定より既に六十年の歳月が経過し、学者たちの研究は出尽くし、導き出された結論には最早何ら付け加える余地もないという状況です。ただ、そのような制定過程をよしとして是認するのか、誤りとして否認するのか、またそのような怪しい出自を有する法の有効無効の意味付けをどうするのか、といった評価については様々に意見が分かれ、言論の戦いを続けているのが現在の事態であります。ここでは、その制定史を巡っての是非や評価の論争に加わることを避け、専ら明治憲法との比較に視点を絞って考えていきます。

まず憲法起草にかけられた時間についてですが、明治憲法は明治九年に国憲起草を命ずる勅語が発布され、最初の構想から本文の脱稿まで十三年、原案が起草された明治十九年から数えても制定までに三年かかっています。これに対して、現行憲法は着想されてから原案の脱稿までが昭和二十一年二月四日から十日までの六日間。この原案は英文で起草されましたが、それが日本語に翻訳されて憲法改正草案として公表されたのが1ヵ月後の三月六日。そして改正草案の成文化の発表が四月十七日。これに基づいて六月から十月にかけての国会審議にかけられるのですが、十月七日にはもう両院で可決され、十一月三日に公布されました。全九ヵ月であります。

次に起草に携わった人員ですが、明治憲法の場合は先に申しましたように、中心人物の伊藤博文、井上毅、いずれも国文学者たちの助言を得て我が国の古典の膨大なる分量を読みこなした人たちです。一方、今度はあえてマッカーサー憲法と言いますが、マッカーサー憲法の原案の起草作業に携わったのは、総司令部民生局の二十一人のアメリカ人スタッフであります。後に憲法第九条成立の証言者として有名になったケーディス大佐がキャップで、中尉、大尉、少佐、中佐クラスの士官が十三人、後の七人は文官であります。

しかも、その中に日本語のできる者は一人もおりませんでした。せいぜい、元来チェコ系のオーストリア人であったベアーテーシロタという当時二十二歳の女性が、日本通とされて便利がられていた程度であります。彼女の父親はピアニストのレオーシロタで、東京音楽学校の教授を務めた人物です。ですから、彼女は小・中学時代を東京で過ごした経験があり、東京の地理にはよく通じていた。そこで、GHQが必要とする参考文献を集めるために、東京市内の図書館を駆け巡ったわけです。その参考文献というのも、日本の事情について書かれた英語文献のことで、彼女が日本語を読めたわけでもない。彼女は人権に関する委員会に配属され、女性の人権と労働法に係わる分野を担当しましたが、後年、「法律の知識は高等学校の社会科の授業を受けたのが全てだった」と正直に告白しております。憲法制定のための思想的基盤はその国の歴史にあるという、明治憲法の場合の歴史法学の立場とどんなに異質な条件の下に現行憲法の構想が立てられたかよく分かります。

こうして、民生局のスタッフの六日間の突貫作業によって憲法草案がっくりあげられたわけですが、彼等も法律をつくるときにはやはり自分たちの歴史に依拠するより他にありません。そのときに、彼等の頭の中にあったのはアメリカ史の知識であります。つまり、合衆国独立宣言、南北戦争時の有名なリンカーンのゲティスバーグ演説、合衆国憲法そのもの、さらには我が国でも有名だった戦前のドイツのワイマル共和国憲法。そして、この民生局のスタッフにはアメリカの左翼が多かったものですから、ソ連のスターリン憲法なども下敷きとなりました。およそ日本の伝統的な国家思想や習俗、慣習とは全く断絶した形で憲法がつくられたわけです。そして、その歴史との断絶という致命的欠陥を「民主化」という呪文のような一語を以て塗りかくし、扮飾したのです。そして残念なことに当時の日本国民の大半はこの「民主化」という魔語に誑らかされてしまいました。

■マッカーサーは何故「革命憲法」を強制したか

歴史との断絶の上に成立した憲法は、言ってみれば「革命憲法」であります。その新憲法が発布されたとき、日本国内には革命という言葉から連想されるような内戦状態も暴力沙汰も何もありませんでした。政治思想上の左右の対立は歴然としていましたが、平和が回復してまあ穏やかな秩序が保たれていた。そのときにこの国体破壊の爆弾を内に蔵したような憲法の発布を祝って官民挙げての祝賀の式典が催されたというのですから、妙な話です。この憲法の革命としての意味を深刻に受けとめた一人、当時の枢密院議長・清水澄博士は、痛憤のあまり翌二十二年九月に熱海の海岸で投身自殺をされてしまいました。

一方、明治憲法が停止されてマッカーサー憲法が採択されたという革命の事実と、表面上平穏な秩序が保たれていた国内社会の現状との乖離の辻棲を何とか合わせるために、いろいろな理屈が考え出されました。中でも有名なのが、東京帝国大学法学部の憲法第一講座担当の宮沢俊義教授が唱えた「八月十五目革命説」です。八月十五日にポツダム宣言の受諾を内外に公表したことが、結局かくのごとき国体変革を明記した憲法の発表をもたらした。つまり、ポツダム宣言の受諾は日本国の革命だったのだと論じることで、マッカーサー草案を探知するまでは「大日本帝国憲法」の擁護者であった憲法学者としての自分の学説の百八十度の方向転換、即ち変節についての自己弁護を組み立てたのです。この宮沢教授の進退は、実に戦後日本の道徳的顛落を象徴しております。

さて、マッカーサーが国際法の条規を蹂躙してまで、占領下の日本国に対して革命と言う他ないこの憲法の採択を強制した動機は、どういうことだったのでしょうか。

今、国際法の条規を蹂躙してと申しましたが、一九〇七年に締約されて日本も加盟・批准したハーグ陸戦法規の第四十三条に、占領軍は被占領地の国内法に手をつけてはならないという規約があるのです。これが、ドイツのように全国土を占領され、政府が消滅し、文字通りの無条件降伏という形を以て敗北した国家ならば、国際管理とか軍政施行という現実の中で、ある意味ではハーグ規約への違反が生じたとしても已むを得ないことであります。ところが、日本はポツダム宣言受諾の結果としての休戦条約の締結という形で戦争を終わらせることができたのです。そのときに、日本には国家元首としての天皇も御健在ならば、国会も政府も健在に機能していた。このような敗戦国に対しては、戦勝国側としてもハーグ条約の遵守は当然の国際的義務であります。治安維持法の廃止の強制、神道指令の実施、マッカーサー憲法の強制などは、明らかに国際法違反の暴挙であります。

こうしたタブーを犯してまで、マッカーサーがGHQの民生局を急がせて慌ただしく「日本国憲法」を制定・公布させたのには、実はそれ相応の理由があったのです。彼には、日本占領という事業を無事に成し遂げ、その成功の下にやがて合衆国大統領選挙に出馬したいという政治的野心があった。そして、平和条約締結までの日本占領というその事業を円満に完成させるためには、天皇の権威が不可欠であるということを、彼は日本到着以前に、日本車の武力抵抗の中止、武装解除受入れのいさぎよさを通じ既に明瞭に認識していました。ところが、合衆国国務省の日本占領方針は、無条件降伏の場合と同様の敗者に対する絶対的な権力を以て日本の戦後処理に臨むこと、つまり天皇制を廃止させて日本に共和制革命を招来させ、アメリカと同質の国として将来決してアメリカの敵対者にならず、常に同調者、支持者、従属者として振舞う他ないように日本国を改造することだったのであります。

合衆国のみならず、連合国十一力国が共同で組織していた極東委員会もまた、天皇統治という日本の国体に関して極めて厳しい態度を取っておりました。マッカーサーは、天皇の地位を保障し、国内の秩序を保つという自分の日本占領方針と合衆国国務省及び極東委員会の処罰的な日本改造方針との間の板挟み状態にあったのであります。その妥協的な結果として、革命的日本国憲法の採択を強制し、天皇だけは温存して、その他全ての天皇統治体制を極限まで弱体化させるという方策を取ったのです。日本の国家社会の秩序の中心として天皇を守り、天皇攻撃の勢力を抑えるというマッカーサーの政略と、天皇を可能な限り弱体化して、できることなら天皇制を廃止してしまおうという米国の処罰的日本処理方針との妥協という見方に立ってみますと、マッカーサー憲法における、明治憲法のそれとは全く違った原理の上につくり出された天皇の奇妙な位置についての説明は、どうやら可能なのであります。

■皇室典範は帝国議会の手が届かない高次元の法律だった

これとほとんど同じ関連が、戦後改定された皇室典範とそれに伴う革命的な皇族制度の変革の構造にも見て取ることができます。明治の皇室典範もまた、明治憲法と同様に、それは決してヨーロッパ諸国の王室の過去を研究し、それを下敷きにしてつくったという様な性格のものではありません。明治の皇室典範の皇位継承、践祚、即位、敬称、あるいは摂政や皇室財産などについての規定は、皇室の歴史の中で伝えられてきた古来の習慣、慣例を体系的に整理し、規範化したもので、明治二十二年に至って新たに天皇・皇族の出処進退や行動の範囲を規定したものではありません。法規が慣例を創設したのではなく、慣例から法理が抽出されて成文の法規となったのです。

伝統となっていた慣例から規範的な法理を抽出するに当たっては、さすがに意見の対立もあり、議論を生じました。最も分かりやすい例は、皇位継承者として直系の男系男子を得られない場合どうするかという、今日まさに問題となっている論点です。皇位継承権を女系の子孫にまで拡大して認めるか、傍系の中でも直系に最も縁の近い男系の男子を探し求めるかで議論は分かれた。女系の子孫に皇位継承権があるとの私案が作られたこともあります。しかし、最終的にはこれは我が国が踏み行ってきた皇位継承の原理に反すると判断されて、撤回されたのであります。明治天皇まで百二十二代の皇位は男系男子による皇位継承の形が不動であったという歴史的事実の重みが決定的でありました。

一方、敗戦日本に乗り込んできたアメリカ占領軍には、可能な限り皇室の基盤を掘り崩し、弱体化させるという方針が根底にありました。その占領軍の日本国改造要求は「民主化」という誤魔化しの名を掲げておりましたが、彼等は当然皇室典範にもその魔の手を延ばし、いわゆる「皇室の民主化」を唱えた。ところが、かつて王室を戴いた経験のないアメリカ人は、さすがに憲法と違って皇室典範改定のためのマッカーサー草案のごときものは出しようがなかったのであります。勢い、彼らの典範改定、皇族制度の変革要求は甚だ粗雑なものになりました。その結果として、昭和二十二年改定・施行の現皇室典範の条章は明治典範に比べて著しく簡略なものになっておりますが、内容においては決定的な原則の変化は見せていないのであります。

例えば、昭和二十一年には始まっていた総司令部と外務省との折衝の過程で、新憲法が男女同権を謳うことになっているのに何故女子皇族に皇位継承権を認めないのか、という疑問をGHQの側は当然提出してきました。外務省は日本の歴史の中で女帝の治世には現実に弊害が生じたのだと説明しますと、何しろ彼等には日本の歴史、皇室の歴史について何の知識もないわけですから黙って納得するより他なかった。アメリカ人である彼等には王室の法というものについての知識がなく、口出しの仕様がなかったのであります。

ただし、内容ではなく、国内の法体系における皇室典範の位置について、それこそ革命的な変化を強いられました。そして、その変化こそはまさに今日日本に革命を招来するかも知れぬ、災いに満ちた変化なのであります。

明治の皇室典範は、皇室の家法として制定されました。それは人民の与かり知らぬものであり、従って将来典範の条文に何か変更を加えねばならない必要が生じたときに、これを帝国議会の審議にかけて承認を得る必要はないとされました。それは皇祖皇宗から受け継がれてきた皇室の家憲なのであり、百二十二代の皇統の歴史がその法源なのです。ですから、当代の君主といえどもそれを任意に制作したり改変したりする権能はなく、臣下・人民の側からそれに干渉できるものではないとされたのです。皇室典範の改定、増補の必要が生じた場合、皇族会議と枢密院に諮って皇室自らがそれを決定するのであって、臣民の意見を聞く必要はない。これは典範の最終条項第六十二条に明記してあります。簡単に言えば、皇室典範は帝国議会の手が届かない、高い次元にある法律だったのであります。

しかし占領軍の介入により、旧皇室典範は昭和二十二年五月二日を以て廃止され、翌五月三日の日本国憲法と同時に現行の皇室典範が公布されます。このとき以降、皇族会議、枢密院は廃止されましたので、皇室典範は一般的な法の一種に格下げとなり、国会の審議を経て改定できるものとなってしまったのであります。皇族会議に代わって皇室会議というものが皇室典範第二十八条で定められはしましたが、十人の構成員の内皇族はわずか二人、議長は総理大臣です。

こうして、皇室典範は皇室の家法という性格を失い、その条規の改定に臣民の介入を許すただの法になってしまった。しかし占領軍の干渉に基づく新法の制定以来六十年、幸いこれの運用に介入を企てるような政治家は現れませんでした。およそいと高きものへの畏れの心というものを持っていない小泉総理大臣が、この不遜な企てを敢えてした初めての人物であります。

■内部からの国体破壊の危機

私どもは、今回の皇室典範の改定案に見られる皇位継承原則の革命的変革に驚きかつ怒ると同時に、総理大臣の私的諮問機関であるわずか十人の委員がたかだか三十時間の、しかも官僚主導の勉強会を催しただけで皇室典範という不磨の大典の改変を企てたという、この現実に、今さらながら愕然としたのです。十人の有識者会議の答申に基づいて皇室典範改正準備室を設立し、上程の準備を始めた現在の総理大臣の暴挙は、遠からぬ将来の日本に共和制革命を招来する恐れのある危険なものです。元来議会の審議を超越した地位にある、皇室のお家の法としての皇室典範が、その改定を企む内閣や議会の手の届く範囲内の存在に格下げされたということ自体、六十年前にアメリカ占領軍が目論んだ日本共和制革命への布石が、今になってその効果を表し始めた、言わば時限爆弾の破裂のごときものであります。

それがただし、実に思いがけない出来事によってどうやら一時法案上程の決行を遅らせることができそうであります。言うまでもなく、秋篠宮家に今秋御慶事があるであろうとの朗報であります。しかし、これを以て安心してしまうわけにはいかないのです。

六十年前、大戦によって危機に瀕した日本の国体は、先帝陛下・昭和天皇と当時健在でありました皇室の藩屏たる皇族方、そして忠義の神髄を身につけていた内閣の大臣たちが、まさに身命を賭して守り抜いて下さったものであります。その日本の国体が、六十年の平和の継続の延長上にある現在の安定した秩序の中で再び根底から脅かされるとは、何という皮肉な事態でありましょうか。

今、この建国記念の日に改めて国体の尊厳ということに思いを致しております。六十年前、あれだけの大戦争を戦い抜き、敗戦の悲運にもめげず、我々は国体を護持し得た。そのことを以て我々はあの苦しい戦争に於いて、それでも最低限度の戦争目的を達し得たと言ってよろしいのです。しかし、国体は必ずしも戦争や外的脅威によってではなく、革命思想に取り付かれた暗い破壊勢力によって、内部からの崩壊の危険に晒されることがあるのです。現在がまさにそれだと言ってよいでしょう。そのことを悟ったのも、昨年から今年にかけての政治家の怪しい動きが与えてくれた貴重な教訓であります。

革命勢力の破壊工作に対抗するために、我々草莽の民にできることは何でしょうか。大変平凡な結論ですが、ただ一つだけあります。それは皇室を上に戴いた、我等が祖国の歴史を正しく学び、「おおみたから」としての誇りの上に、この国柄を大切にしようとの決意を目覚めさせる、健全な歴史教育をしっかりと根付かせ、国民の間に普及させることであります。これ以外に道はないのであります。

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